平成の美術 1989-2019  椹木野衣

2018年11月09日 公開

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 西暦に加えて元号があるというのは面倒だというのもわからなくはありませんが、そのような変数が重なり合うことで、始めて見えてくる時間の相というのも確実に存在します。たとえば、私たちは50年代、60年代、70年代、80年代、90年代の美術というように、美術の動向を10年単位(ディケイド)に沿って整理しがちですが、言うまでもなく、個々の美術はこうした区分に沿ってそんなに都合よく生まれているわけではありません。しかも、そうした尺度を採用する際、それを適用する者は、おうおうにして自分の思考の枠組みが西暦に縛られてしまっていることを意識することができません。たとえば、ごく近い過去であることを念頭に入れてなお、00年代、10年代の美術というような括りが以前のような説得力を持たないのは、西暦が100年単位で循環しているため、10年単位で美術の動向を句切ろうとすると、おのずと1900年代と2000年代、1910年代と2010年代が重なってしまうことと無縁ではないでしょう。いちいち1910年代、2010年代と略さずに記せば済むではないかと思うひともいるかもしれませんが、もともと特定の100年単位には収まらない10年単位での変化を示すための表記なのですから、それが判別しにくいとなれば、おのずと使われなくなっていくでしょう。むしろ、私たちが日頃から60年代といえば1960年代のこと、80年代といえば1980年代のことだと自明に考えてしまっていたことにこの際、はっきりと気付かなければなりません。それに、潜在的ですが、私たちの暮らしには、かつての旧暦の痕跡も、年中行事などのかたちで確実に根を張っています。時間は決して一枚岩ではなく、どの尺度を取るかによって、四季をはじめとする自然の運行の指標となり、複数の軸から私たちのからだに直接、影響を及ぼしているのです。余談になりますが、私は旧暦で時を数えることで、自然と身体の同期がうまくゆくことを経験的に知っています。それでいて、西暦や元号を使うことに根本的な不都合が生じることはありません。それらは単独の尺度ではなく、並行する関係にあるからです。だからこそ、西暦と元号を掛け合わせて時をとらまえることは、時間を物のような実体ではなく、一種の関数的な性質からとらえるのに大いに役立つはずですし、そのことで見えてくるものも、きっと数多くあることでしょう。
 いま自然の運行という話が出ましたが、それでいうならば、平成とは驚くほど多くの自然災害に見舞われた時代でもありました。先に触れた平成7年の阪神淡路大震災と平成23年の東日本大震災はひときわ突出した例ですが、他に震度7を記録した地震だけを数えても、阪神淡路大震災に次いで平成で2度目にあたり、東日本大震災の4度目に先立つ平成17年の新潟県中越地震、5度目、6度目を観測史上初めて相次いで記録した平成28年の熊本地震、そしてまだ記憶にも新しい平成30年の北海道胆振東部地震が挙げられます。ところが、震度級数で最大にあたる震度7が観測されたのは、この尺度が新たに設けられた昭和43年の福井地震以降、昭和では一度もありません。昭和を飛び越え、平成7年の阪神淡路大震災が観測史上初めてだったのです。また、これらの巨大地震の影に隠れてあまり留意されることがありませんが、平成5年にも、それまでの自然災害の水準を超え出るような災害が相次ぎました。7月には北海道南西沖でマグニチュード7.8の力が解放されると、奥尻島は推定震度6の大きな揺れに見舞われ、震源が海底であったため、地震発生の直後に大津波が島の沿岸部を襲い、火災と合わせて死者202人、行方不明者28人を数えるたいへんな震災となりました。先ほど阪神淡路大震災で、ほとんどの日本人は初めて、大震災と呼ばれる被害がどのようなものであるかについて知ったということを書きましたが、少なくとも私は、報道などを通じて、大津波と呼ばれる被害がどのようなものであるかについて、この奥尻島地震を通じて初めて知りました。それまでは津波とは、なにかビッグ・ウェイヴのようなものだと勘違いしていたのですが、実際には、繰り返し押し寄せる大規模な高潮に近いものだったのです。
 平成5年は、ほかにも梅雨前線が長く日本列島に居座って、8月には鹿児島県鹿児島市を中心に大きな被害を出すことになる集中豪雨があり、気象庁はいったん出した梅雨明け宣言を撤回、けっきょく、沖縄県と奄美地方を除いて梅雨明け日が特定されない記録的な冷夏となりました。著しい日照不足に陥った水田では不作が懸念されていましたが、やはり収穫期になってもコメの結実状態はひどく悪く、結果として日本列島全体で作況指数が74という恐るべき数値となりました。コメの作況指数は100がおおよその平年並みで、95を切ると不良、90以下では著しい不良ですから、74という数字がどれだけの不作であったかがわかると思います。しかも地域に限定すれば数字はさらに悪く、東北全体では56、宮城県で38、岩手県で30、青森県で28、さらに絞れば驚くべきことに下北半島では0(収穫が皆無)でした。当時のことを思い出す人もいるかと思いますが、この年、スーパーや米屋の店頭からは新米が姿を消し、コメの備給が間に合わず、政府は緊急にコメの輸入を海外に打診、交渉のうえタイ産のコメが全国の店先に並びました。

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