平成の美術 1989-2019  椹木野衣

2018年11月09日 公開

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 しかし、たとえそうであっても、平成という時代が、日本にとってたいへん大きな曲がり角にあたっていたことは、改めて思い起こさなければならないと思います。まず、なんといっても平成は、日本にとってのアジア太平洋戦争という、文明史上でも最大規模の世界大戦を挟んで、前後に広がる昭和の御代の終結によって幕を切って落とされた時代にあたります。その点では、昭和とは——「戦後」も含め——まぎれもなく戦争の時代でもありました。その時代を終えて直後に訪れたのは、かつてない好況に沸く狂乱のバブル経済でした。美術に引きつけて言えば、このバブルの波に乗って、日本全国に新しい美術館を建設する機運が高まりました。先に名前の出た東京都写真美術館も、その原案となる「東京都映像文化施設(仮称)基本構想」が発表されたのは、ちょうど平成元年にあたっています。そして平成7年には年初の1月から神戸を中心に多大な被害を出した阪神淡路大震災が勃発します。戦争は別にして、自然災害でこれほどまでの破壊が主要な都市で起きるのを目の当たりにしたのは、ほとんどの日本人にとって初めてのことだったでしょう。それからまもない3月には東京でも地下鉄網の各所で満員電車の床に化学兵器のサリンが撒かれ、多くの死傷者が出るという地下鉄サリン事件が起きました。首謀者は宗教団体のオウム真理教と特定され、さらなるテロに対する特別な警戒網が敷かれ、いっとき、首都はまるで戒厳令下のように静まりかえりました。この年は西暦では1995年にあたり、1945年の敗戦からちょうど50年の年にあたっていました。本来であれば敗戦から占領、国際社会への復帰・復興、高度経済成長を経て消費社会の到来、バブルからバブル崩壊までを回顧する省察のための年であったはずです。都市部でのテロは、平成15年に開戦したイラク戦争を経て、その報復として都市部での自爆や群衆への車両による突入などが劇的に増えましたが、化学兵器を使ったテロが首都の中枢で起きたのは依然、日本だけです。そして平成23年にはマグニチュード9.0を記録する未曾有の超巨大地震が東北沖で発生、東日本大震災が起きました。三陸を中心に太平洋沿岸が数十メートルに達する大津波に見舞われ、海に面した街の多くは跡形もなく消え去り、2万人に迫る死者・行方不明者が出ました。同時に東京電力福島第一原子力発電所で3基の原子炉がメルトダウンし、大量の放射性物質が外部に漏れるという大規模な核災害へと発展し、その余波は平成が終わろうとしている現在まで、暗く重く尾を引いています。
 他方、西での大震災と首都のテロ事件が起きた平成7年は、メディア史のうえでは「インターネット元年」とされており、それまでマスメディアに頼るしかなかった情報の受容が、個人では不可能とされた情報発信へと転換し始める端緒となった年でもありました。その後のソーシャル・メディアの急速な発達が、時にマスメディアを凌駕し、社会に直接、影響を与えるようになったのは言うまでもありません。
 このような時代に、平成の美術はいったいどのようにして、昭和の美術とは異なるいでたちで私たちの前に姿をあらわしたでしょうか。急いで付け加えておかなければなりませんが、この文章は、いまだ語られ始めていない平成の美術という枠組みがありうることを明らかにすることが主要な目的で、平成の美術を既存のものとして措定し、その内容を吟味するためのものではありません。そのような機会は別の場で、それこそ美術批評や展覧会を通じて多様な見解が示されるべきでしょう。それよりも、ここで私が言っておきたいのは、日本列島の美術について語るうえで、西暦をもとに思考することは、決して一枚岩の確実なものではないということです。元号については、これを機に廃止してはどうかという意見も聞かれましたが、賛同できません。私たちが過ごしている時間は、決して均質なものではありえないからです。その意味で言えば、西暦といえどもひとつの尺度にほかなりません。空間と違って時間というのは物理的な性質と割り切れるものではなく、確たる実体もありません。時計で刻まれる時間は、文字盤という空間を様々なやり方で分割しているにすぎず、本来、時間は分割することができません。ただ、選択的なやり方で表示することができるだけです。選択的であるということは、恣意性がどうしても盛り込まれます。私たちが時間を恣意的にしか認識できないのであれば、選択肢は多くあったほうがよいに決まっています。

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