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2023年01月31日 公開

 

美術空間としての『巷』

千葉成夫

 

 なかなか終息しない新型コロナ。話にならない政府の無策振り。そうでなくても足腰の悪い我が身、出歩く事がますます簡単ではない。僕は美術の巷を歩く事を心掛けてきたが、こうなると、遠くなりつつある巷をどう捉えるかに腐心する。それでも、空想や想像や情報等だけの虜になるのは性に合わない。ネットとかで色々と入手しやすい情報化社会の今日だが、美術作品は実物を見て、展示空間に身を置かないと始まらない。美術体験とは、生身の身体が生み出し、それを生身の身体が直に受け取らないと始まらない、そういう必然性をもっている。面倒といえば面倒だし、アナクロといえばアナクロだが、普通の情報処理のようにはいかない。
 作品の前に立つ。作品だけだった空間が、僕の、あるいは僕という身体空間の参入によって動き出し、変化する。その動き乃至変化はいわば僕だけのものかもしれないが、人が美術作品を見たり体験するとはそういうことなのだ。
 喩えがいいかどうか、例えばネットのオン・ライン上では性交渉は不可能である。勿論このご時世、そういう変った性交渉にしか興味のない人々も居るかもしれない。でも美術体験の相手は、こちらとは別の身体が生み出し、その身体からも自律した自身に固有な空間を生み出して在るモノ(なんか菅木志雄っぽい!)なのである。やはり、その場所にまで足を運ばないと話にならない。
 話にならなくても、このご時世、実物を見ないで資料や図版や情報だけでああだこうだと言っている手合いが居てもおかしくはない。僕のような古い人間には世も末だと見えるけれど、今の世代はそれが始まりだと思っているのかもしれない-ひょっとしてそうだったりして! 問題は、それで始まるのは何か、ということですね!

 

『美術評論家連盟会報』23号