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2023年01月31日 公開

 

別の仕方で、新しいヒトとモノの方へ ——千葉雅也インタビュー

 

 

——本日は哲学者であり小説も含めて様々な著書を発表しておられる千葉雅也さんに、芸術とりわけ美術にフォーカスを当てたお話を伺いたいと考えています。よろしくお願いします。早速ですが、千葉さんは頻繁に芸術について語られている印象があります。例えば、『メイキング・オブ・勉強の哲学』(文藝春秋)やTwitterなどでは、ご両親や高校の美術教師からの影響に触れられていました。そのあたりのご自身の美術的背景から伺いたいのですが。

 

千葉 貴重な機会をありがとうございます。今では文章を書く人になったわけですが、本来自分の活動は美術がメインでした。小さい頃から、遊ぶというと絵を描く、紙を切って何か工作するというのが常でした。それが自分の基本的な部分だろうと思っているんです。両親はどちらも美術系の学校で学びました。父はのちにデザイン会社を興して広告業を始めるんですが、元々は写真をベースにしたシルクスクリーンの作品を作っていました。両親とも絵が描けるわけです。そういう環境なので画材もいろいろあって、美術が自然と入ってくる環境でした。

 それから、親の影響で言うと、栃木県には大谷石という石の採掘場があるんですが、その地下空間でアンディ・ウォーホル展が開かれて、おそらくそれに連れて行かれたと思うんです。小さい頃の微かな記憶で、とにかく巨大な薄暗い場所で現代美術を見た、そういう記憶があるんですよね。たぶんウォーホルじゃないかと思うんですよ。夢じゃないよなあ……。

 

——調べて注に入れておくことにしますね(笑)(*1)。その後はいかがでしょうか。幼少期を過ぎても美術との関わりは続いていたのでしょうか。

 

千葉 そうですね、小中高と継続的に美術の制作を続けていました。高校に入ってからも美大に行きたい気持ちがありましたね。ただ、ちゃんとデッサンをやっていなかったし、やる気もなかった。一人で現代美術的なものを作っていました。でも、宇都宮高校の美術教師、有坂隆二という方なんですが、彼から何度も美術部に入るようにと言われて、しぶしぶ入部することになったんです。高校2年生ですかね。とにかく何もしなくていいから入ってくれと言われて(笑)。彼はミニマリズム的な作品を作っている方で、当時はすごく変わった授業をしていました。紙粘土を使って限りなくリアルに卵を作りなさいとか、四角形を真っ黒に塗りつぶしてから何か言葉を書くとか、木を安心する形になるまで削りなさいとか、そういうコンセプチュアルな授業だったんです。それで教員室に遊びに行くといろいろ本を見せてくれて。松岡正剛さんの『遊』(工作舎)を知ったのも有坂先生が教えてくれたからで、ドクトル梅津バンドのノイズのテープと浅田彰さんの評論がセットになったボックスも貸してもらいました(*2)。実は浅田彰という名前に出会ったのはそれが最初なんですよ(笑)。確か浅田さんはそこで痛烈なバタイユ批判を展開していて、ある種の極限を目指すことはむしろダサいみたいなことを僕はその当時そこから知るんです。

 そんなわけでデッサンをするでもなく美術部に在籍していたんですが、実は当時の部長がアーティストの田幡浩一なんですよ。同級生です。田幡が先に美術部に入っていて。そういう部だから、毎年夏に県の文化センターでやっていた部展は、みんな現代的なことをして、それぞれのインスタレーションみたいになってましたね。当時の僕は段ボールを使ったオブジェなんかを制作していて、もしかしたら田幡より「現代美術やるぞ!」っていう気概があったかもしれない(笑)。

 それから高校時代は学外でも活動していました。宇都宮市にギャラリー・イン・ザ・ブルーというギャラリーがあり、地元の作家さんがよく集まっていました。そこで、箱を使った作​​品をいろんな人に作ってもらうという、ジョゼフ・コーネル的な発想の「ボックスアート展」という企画があったんですが、その第一回から何年か連続で出品していた時期もあります。

 

——しかし美大には進まれなかったんですね。

 

千葉 そうですね。僕は批評の方に移ったんです。それには栃木県立美術館で開催された「メメントモリ」という展覧会が関係しているかもしれない(*3)。 高校時代に非常に衝撃を受けた展覧会です。美術の授業の夏の宿題で、県立美術館の企画展に行ってレポートを書けという課題が出るんですけど、それで観たんです。僕の記憶が確かならば、『解体新書』のような江戸時代の解剖図とか、デューラーなんかの銅版画といった歴史的な死のイメージをイントロダクションとして置いて、そこから現代美術へと向かっていく展示でした。草間彌生のペニス状の形態が凝集したものとか、村岡三郎、ボイス、ボルタンスキー、キーファーなんかもあったはずです。当時の僕は、とにかくクールな、シルバー!鉄!マテリアル!みたいな感じの現代美術を初めて本格的に見てガツンときたんですよ。それで、そのレポートとして、僕は本を作ったんです。その展覧会からの刺激を散文詩みたいな批評にして、それと自分のドローイングを組み合わせて、自分で紙を切って貼り合わせて一冊の手製の書物を提出しました。それが僕にとっての、美術作品と批評の最初のブリッジでした。その後、展覧会レポートもそうですし、読書感想文の校内コンクールなどを通して、物作りよりも文章の比重が大きくなっていきました。今の仕事の下地がそこでできたんです。進学をどうするかという段階になり、親には法学部に行けと言われたんですけど、一週間くらい考えて、法律はやはり興味がないと思って、文三を受験することになる。大学入学後は美学をやろうしていましたが、98年に『存在論的、郵便的』(新潮社)の東浩紀ショックが来ました。それは本当にすごい衝撃で、こういうことを本格的にやりたいと思った。その98年=大学2年生あたりで作品制作はストップして、批評も書かなくなって、理論の方に進むことになりました。

 

——それがデビューとなった『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)に至るわけですね。

 

千葉 そうです。つまり、元々の関心事だったアートと批評はいったん封印して、ただただ思想のテクスト解釈をやるということに集中していたわけです。解禁してもいいかなと思えたのは2008年で、その年に岡﨑乾二郎さんが主催の「批評の現在」というシンポジウムが国立近代美術館で開かれたんですが、そこに参加したんです(*4)。伊藤亜紗さん、平倉圭さん、池田剛介さんとか、近い世代の論者がずらっと呼ばれて何か大喜利みたいなことをさせられた。そこで僕はベーコンの話をしました。『ユリイカ』に森村泰昌論が掲載されたのもその頃でしたね(*5)。 フランス現代思想の読解ではなく、そもそもの自分の問題関心を解禁していいだろうとなったのが2008年前後の時期です。その後、関西に移って徐々にいろんなことを解禁しながら今日に至るわけです。

 

——森村泰昌論もそうですが、田幡浩一論、金子國義論、クリスティアン・ラッセン論などの美術評論は集中的に『意味がない無意味』(河出書房新社)に所収されています。失礼かもしれませんが、作品のデスクリプションや分析、資料の提示など、極めて正統な美術評論の手つきを感受しました。

 

千葉 分析対象があって、その対象をよく観察して何事かを読み取るというのは、テキストでも視覚表象でも、音でも何でも当たり前じゃないですか、という前提があります。東大の表象ではそういう教育を受けました。「スクリーンに感動なんて映っていない」というのはたぶん蓮實重彦さんの言葉ですが、そういうことですね。僕はすべてのジャンルにそれを適用している。広く言えばフォルマリストなんだと思います。

 

——なるほど。しかし一方で、千葉さんの中には強烈な美意識、テイストがあるようにも思います。それはラッセン論であったり、あるいは小説作品において存分に反映されている。少し言葉を選びますが、下品だけれども洗練されているもの、ボードレールのダンディズムからソンタグのキャンプに至る系、同性愛者の文化が育んできたある種の美学のようなものが、千葉さんの中に息づいているように思うのですが。

 

千葉 それは確かにそうなんですが、ちょっと経緯を言うと、ああいう下卑たものに対するテイストっていうのは後からのものです。元々僕は断固たるハイカルチャー主義者で、およそ下品なもの、通俗的なものを徹底的に唾棄するという人生を高校まで送ってきました。大学デビューでその反動がきて、嫌悪してしょうがなかったストリート的なものが、実は抑圧された欲望だってことに気づくんですよね。そこにセクシュアリティの問題も関わってくるわけで。だから昔からの友達は僕の変化に戸惑いますよね。ところが読者の方々はその背景を知らないから、「ギャル男ファッションを纏う哲学者」とか言われて(笑)。むしろ僕の基本的なテイストというのはきわめて西洋近代的なものです。はっきり僕はそういう少年でしたから。モーツァルトとかベートーベンとか古典派はだめで、とにかくフランス近代が好きでした。ドビュッシーとラヴェルが、自分で弾いてもいましたが、とにかく大きい。ロックとか歌謡曲とか聞けたものではなかった。俗なものをクィアに解釈していくのは大学以降の経験を対象化するのに必要な作業だったのかもしれません。

 

——通俗的な対比で申し訳ありませんが、抽象表現主義を中心とするフォルマリズムはマッチョであり、その反対側にクィアなウォーホルがいる。フォーマルなものとクィアなものが千葉さんの中で両立していて、そこに何かあるのではないかと勘ぐったのですが。

 

千葉 ウォーホルの影響はきっとありますよね。商品的なスカスカなものに身を浸して実存がスカスカになっちゃって全然OKじゃん、みたいな。そういうノリが一方にあって。それを言うと、日比野克彦さんの存在は大きいですね。小さい頃に、日比野さんがデザインしたお菓子のケースがうちにありました。日比野さんの段ボールコラージュをイメージソースとしてケント紙でコラージュを作っていたのも覚えています。幼稚園の年長か小1ぐらいの頃です。アルファベットなどの記号を書いて、飛行機とかを形作って、それをテープで貼って、みたいなことをしていました。高校時代の段ボール作品もその延長でしょうね。だから日比野さんはキーだと思っていて、あの人こそ、作るという営為とキャンプな記号性を両立させていた身体じゃないですか、あの当時。バスキアもそうですが、ああいうストリートっぽい、実存的な制作衝動と消費経済がつながっている様態。

 

——千葉さんの美術的な造形作法は、実際のところ、千葉さんの著作全体に通底していると考えられます。制作プロセス=執筆方法を明示するという部分にも関わってきます。

 

千葉 そう言っていただけると嬉しいですね。僕は美術制作を止めて文章に移りましたが、それでも相変わらず美術を続けているつもりなんです。僕の作ってるものって全部美術なんですよね。実は来年アートに関する本を出す予定です。それは自分なりに芸術の定義を開示して、アート全般に苦手意識がある読者層を想定して、制作の面白さに誘い込むような内容を想定しています。美術だけでなく音楽などすべてに通底するような形で。もう書き始めていますが、そのキーワードになるのは、「並べる」ということ、「配列する」ことです。とにかく並べればいいんだと。合目的的でなく並べる。脱目的的に並べる。それが根本だと思う。それはコラージュでありモンタージュです。それが僕においては、言語の構成物でもそうなんです。

 

——言語を素材とすると文学や哲学になりませんか。それが美術的であるとはどのようなことでしょうか。

 

千葉 言語を扱うときにも物質的な発想があるんです。僕が中学に入る頃に父親の会社がマッキントッシュを導入したんですね。それまでは写植を切り貼りしていたわけですが、DTP化を進めた。そのときに、父は僕にもその実験をやらせたんです。僕にもマックを買い与えて。戸田ツトムの『都市の書物』(*6)と『森の書物』(*7)という、DTP本の記念碑的な作品、あの2冊を渡されて、これを読んで勉強しろと言われました。エルゴソフトのEGBookがまず導入されて、次にPageMakerですね。高校のときにはQuarkXPressを使うようになる。ちゃんとフォーマットを決めて流し込むんじゃなくて、テキストボックスをあっちこっちに適当に並べて、それにリンクを貼って流し込んで、あちこちに文字列が飛び飛びにあるみたいなレイアウトを作って遊んでたんですよ。戸田ツトム風ですね(笑)。

 

——文章に関しては『メイキング・オブ・勉強の哲学』や『ライティングの哲学』(星海社)の中で制作プロセスが明示されています。そこで語られていることやいまおっしゃられたことは、いわゆる編集とは違いますよね。

 

千葉 編集というと文字情報だと思うんです。僕が考えているのは、編集よりもグラフィックデザイン、エディトリアルデザインですね。編集意識より版下意識ですよね(笑)。版下、版面という目で僕は文章を見ている。他人の文章を見るときも、ぱっとページを見た時の版面が黒いとか白いとか、版面の詰り具合とかでだいたいその人の文章はわかる、そういう感覚で見ている部分があります。

 

——少し話を変えます。千葉さんは過剰なポリティカルコレクトネス、不当なポリコレに対する問題提起も各所でなさっています。今の現代美術においては社会政治性を強く打ち出しているものが多くありますが、それについてはどうでしょうか。どこか共通する部分があるとお考えですか。

 

千葉 大前提として、そのような現代美術作品について、僕ももう少し勉強しなければと思っています。もっと歩み寄って考えなきゃいけないという気もしてるんです。ただ、今の全体的な空気について言うと、まあ、ネガティブなわけですよ。美術ではなく「アート」という言葉が使われるようになっていく過程で、一方で、投資対象としての価値が強調され、他方ではエンパワメントやケアといった社会的な意義が強調される。いずれにせよ通俗化なんですよね。つまり「わかる」ようになっていくということです。あるいは、目的性が付与されていく。大きく俯瞰して言うと、役に立たないものがどんどん存在しにくくなっている。しかしネガティブなもの、無為なものが持つ肯定性は擁護しなければならない。プラスとマイナスが二重化した状態というのが、かつてはいろんな領域で重視されていたと思うんです。そういう両義性が成り立たなくなってきている。それには抵抗せざるをえないですね。

 

——無為ということを言い過ぎるとある種の否定神学と言うんでしょうか、深さや謎を呼び込みやすい。しかし千葉さんはそれも回避されようとしていますよね。それは方法論の提示によってなのでしょうか。例えば、千葉さんは執筆方法を明示なさっていますが、それでもなお「千葉さんの小説は深いわ、この人すごい人や」となりやすいし、人はいまだにそれを求めてもいると思うんです。

 

千葉 一個一個、物を作って提示して、なおかつ僕の場合はその作り方についても言うわけですが、まあバランスなんだと思います。「ほどほど」の塩梅を考えてやってますよね。

 

——程度論ですね。

 

千葉 塩梅はやっぱり大事で。方法を隠した方がすごそうに見えるというのって、それこそ一つの方法論としていまだに根強いと思うんです。ちょっと見渡せばみんなそれをやっていますね。そのバランスは難しいなと思いますね。僕の小説なんかも、アホみたいな誤読をされると、さすがにそれは違うだろと言いたくなる。そういうときにちょっと言ったりもすることもある。今はみんないろいろ言うようになっているので、まあいいかなと思っていて。だから制作物を提示するのと同時に方法も語るというのは、自分なりの塩梅でやってますね。とにかく、何かちょっと作ってみたら面白いですよと、制作の面白さを伝えたいんです。僕のものを読んで何か書きたくなったという感想を見ると、とても嬉しく思います。

 

——『勉強の哲学・増補版』(文藝春秋)の補章では美術だけでなく、音楽やダンスなどを気楽に開始することを勧められていますね。

 

千葉 その補章が今度の芸術論のプロトタイプですね。ところで、生活における芸術ということでは、坂口恭平さんの活動は重要なものだと思っています。坂口くんと呼ばせてもらいますけど、同い年だからよくわかるんですよ。僕とはすごく異質な人ですが、同時にすごくわかる部分がある。マルチジャンル的なことを彼も子供の頃からやってきたはずで、同じファミコン世代で、現実とバーチャルの二重性というのを自然に持っている人。体感的にわかるんですよ。あれは78年の男です(笑)。

 

——先ほど日比野克彦さんの名前があがりましたが、同世代としての坂口恭平さんの名前もここであがりました。

 

千葉 つながりますよね。日比野さんは、物を作ることから活動へと移行していった。コミュニティアート的なものへと向かったわけですが、最初期から美術と広告、デザインなどの境界横断をしていたわけです。作品が閉じていないところがポイントなんでしょうね。そこが僕のなかで坂口くんにもつながっていく。しかし、その対比で言うとね、僕はやっぱり閉じてますね(笑)。ここまでの僕の言語作品は、やっぱり一個一個閉じている。坂口くんの作品は一個一個オープンです。あるいは、半開きだと思います。

 

——近作の『現代思想入門』(講談社)を拝読しましたが、最後のあとがき部分でちょっと「半開き」になった印象をもちました。

 

千葉 だんだん自分なりに開く方向に向かってるんです。だけど、昔書いていた一個一個のテキストは、完結性ということがとにかく重要でしたね。

 

——これまでは閉じていたけど、開く方向に向かっている。

 

千葉 ただ、僕の場合は、開くことを良しとするのではちょっと違うという思いがずっとある。以前よりも開く方向だとは思いますが、それはネットワークに開かれるみたいなこととは違うんですよ。プロセスや活動が作品だとかいう言い方も違うと思っている。作品という存在、その物質性に僕は非常に強いこだわりがありますね。

 

——日比野さん、坂口さん、千葉さんと並べると、そこでは「人」が前景化してきていますが、もしかしたらそれは人ならざる人の概念かもしれません。美術においては「作品」のみに議論や評価は集中すると言えるのですが、千葉さんがおっしゃっているのは、モノの概念とヒトの概念が同時に変化しながら展開しているように聞こえます。

 

千葉 そうですね。「作者の死」以後にもう一度、作者という存在を、かつての主権者的なものとは別の仕方で仮固定する……。そのように考えると、作品、モノを並べる美術史というのは一つの史観ですが、美術史においてヒトをどう扱うかというのが改めて面白い問題になってくる。デュシャンだって草間彌生だって、ヒトという視点がなければ語れないでしょう。ただ、作者の特異性に還元せずに、同時にモノとしてのモノを考える。そこがポイントになってくるでしょうね。ご指摘いただいた、僕の中のフォルマリズムとクィアという二つの軸は、その問題において交差するのかもしれません。

 

2022年12月2日 梅田にて

 

(*1) 「巨大地下空間とウォーホル展」(宇都宮市大谷町・屏風岩アートポイント、1983年7月24日~8月20日)

(*2) 『1Q84 Yaso Imagisonic #3』(ペヨトル工房、1984年)

(*3) 「死に至る美術:メメントモリ」(栃木県立美術館、1994年7月31日〜9月25日)

(*4) 「批評の現在 シンポジウム」(東京国立近代美術館講堂、2008年12月23日)

(*5) 千葉雅也「パラマウンド 森村泰昌の鼻」『ユリイカ』2010年3月号

(*6) 池澤夏樹著・戸田ツトム構成『都市の書物』(太田出版、1990年)

(*7) 戸田ツトム『森の書物』(ゲグラフ、1989年)

 

『美術評論家連盟会報』23号