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2023年01月31日 公開

 

批評と作者
-バーネット・ニューマンとロバート・マザウェルの往復書簡から-

芦田彩葵

 

 

 美術作品や美術動向に関する批評や言説が、美術史の形成において大きな役割を果たすことは自明であるが、当事者である作家たちは、自身を取り巻く言説をどのように捉え、どのように関与してきたのだろうか。
 1967年夏号の『アート・インターナショナル』誌に「ニューヨーク・スクールの始まりについて:1939-43年」という記事が掲載された。この記事は、シュルレアリストであるロベルト・マッタとニューヨーク・スクールの画家ピーター・ブサに対してシドニー・サイモンがミネアポリスで行ったインタヴュー、そして同じくサイモンがニューヨークで抽象表現主義の画家ロバート・マザウェルに行ったインタヴューの二本立てによって構成されている。50年代後半に入るとネオ・ダダ、ポップアート、ミニマル・アートをはじめ、ポスト抽象表現主義として多様な美術が生まれ、60年代後半は抽象表現主義を歴史的見地から振り返る時期に入った頃といえる。本記事は、抽象表現主義形成期を取り巻く環境を知ることができる、当事者による貴重なオーラル・ヒストリー的資料と言えるだろう。しかし、当該記事の掲載後に抽象表現主義の画家バーネット・ニューマンから編集部へ内容について抗議の手紙が届き、9月号にその内容が掲載されることになる。
 手紙には、ブサとマザウェルが「歴史」を捏造しようとしていること、とりわけマザウェルに関しては痛烈で「マザウェルは自分自身の墓碑銘を建てるという戦略で頭がいっぱいで、それを歴史と混同している。彼はその戦略を実行するために、私の作品を私から取り上げることが必要だと考えている」と書かれている(*1)。記事を確認すると、マザウェルがサイモンの質問に答えるかたちで、マッタやブサをはじめ、ペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術画廊」での展覧会を通したシュルレアリストと当時のニューヨークの若手作家たちの交流、オートマティスムをはじめとしたシュルレアリスムの技法や思想がどのように作家たちに受容され、また彼/彼女らが独自の絵画を生み出していったかが述べられており、やはり抽象表現主義の代表作家であるポロックに関する言及が多い。実際にマザウェルは、欧州留学やメイヤー・シャピロのもとで美術史を学んだ経験から欧州の作家とアメリカの作家たちを結ぶ重要な役割を果たし、多くの文章を発表し雑誌の編集長を務めるなど抽象表現主義の理論的支柱にもなって、その発展に大きな役割を果たした人物である。その一方で、インタヴューという手法は、時には記憶違いもあれば、無意識のうちに自身の貢献度を過大に述べてしまうことや、意図的、戦略的に発言する場合もあるだろう。マザウェルについても同様のことは当てはまり、時に主観が入った発言となっていることは自然なことだろう。むしろ、その主観的発言が時代の空気や画家たちの特質を端的に捉えていることもある。
 ニューマンがマザウェルの発言について、特に不快感を示したのは、自身とクリフォード・スティルとマーク・ロスコとの関係であった。マザウェルの発言において抽象表現主義の主要作家の名前が頻出するなかで、ニューマンの名前が登場するのは僅か数回であるが、「(スティルのカンヴァスは)主に、中央部にギザギザした筋があり、ある意味、現在のニューマンの手法がもっとフリーハンドであった場合のような、つまり、稲妻のようなギザギザの線のようなものだったら」という言及にニューマンは反発した。自身の作品がスティルの表現から喚起されたものだと捉えられる危険性を感じたからだろう。手紙のなかで自身とスティルの表現は別個のものであることを主張し、スティルからの影響は受けていないことを示そうとしている。これに対して、マザウェルは利己的な観点から歴史を捏造しているというニューマンの指摘に対して憤慨し、彼の主張は言いがかりでしかなく、この手紙の隠された主旨はスティルとロスコに対する執拗な増悪であると10月号に手紙で応戦している。そしてスティルとニューマンのどちらが早くストライプを描いたかを問題にしているのではなく、アナロジー的視点から両者を比較することはおよそ無理なものではないと考えたと付け加えている。翌号にニューマンの反論が掲載される。マザウェルの告発を受けてのことだろうが、議論は抽象表現主義の形成に関するものから逸脱し、マザウェルに対するこれまでの批評や振舞いについての不満がぶつけられたものになっている。またスティルとロスコとの関係について、三者は絵画やコンセプトは異なるもののお互いに尊重し合う立場にあり、彼らに厳しい言葉を自身はぶつけたことはないと記している。しかし実際のところは、ニューマンは1959年の個展開催時に両者に個展に足を運ばないよう手紙を送っている。いずれにしても、当初の抽象表現主義の形成期について考察するはずのインタヴューから議論は脱線し、数号にわたって画家同士の人間関係やお互いの当時の見解、振舞に対する批判のやり取りが続き、翌年1月号に関係者の手紙が掲載され、この応酬は幕を閉じた。スティルとロスコを巻き込んだこの遣り取りをどう捉えることができるのだろうか。
 これまでにもニューマンは、自身の作品に関する批評について執筆者や掲載誌の編集部に抗議の手紙を度々送ってきた。他の作家たちも抗議の手紙をしばしば送り、自身や仲間の活動、作品観について雄弁に語ってきた。抽象表現主義はクレメント・グリーンバーグとハロルド・ローゼンバーグら批評家によってその地位を堅固なものにした背景があるが、彼らとも常に友好関係にあったわけではなく、批評に反発することもあった。その状況は例えば、2008年にユダヤ博物館で開催された「アクション/アブストラクション」展の紹介資料でも示され、作家と批評家の緊張関係が浮かび上がるだけでなく、自身の作品について積極的に発信しようとする作家たちの姿勢を見てとれる。
 美術作品や美術動向に関する批評や言説が、自身の評価さらには歴史化につながるため、作家も自身の作品に関する批評や言説に目を光らせるのである。なかでも、抽象表現主義創世期において、むしろ作家たちのスポークスマンとして、批評家として存在感を放っていたニューマンは、そのことに自覚的であった。マザウェルへの反論においても、ポロックやクラインを例に挙げ、彼らは亡くなってしまいマザウェルの言及に反論できないが、幸い自分はまだ存命なので反論できると記している。特に1965年以降は、抽象表現主義が歴史化されていくなかで自身の存在意義を印象付け、かつ歴史化される過程で過去の作家と認識されないよう現代においても一線で活躍しているように自己演出するため、自身の先見性や独自性について記した手紙をキュレーター、評論家、美術史家に度々送っている。そのことについては、吉田侑李氏の研究に詳しい(*2)。
 同じくマザウェルも前述したように、文筆家としてまた雑誌の編集長としてアメリカ美術の発展に寄与した。二人は抽象表現主義を代表する著述家でもあったわけだが、記事そのものには、シュルレアリスムとニューヨーク・スクールの作家たちのオートマティスムに対するアプローチや作品スケールの認識の相違など、作品を読み解く上での重要な部分が語られていたにもかかわらず、優れた批評家でもある二人の論争がニューマン、スティル、ロスコの人間関係に終始したことは残念なことであった。幕を閉じることになった68年1月号に寄せた編集長のコメントは的を射ている。「ニューマンからルイス、ノーランド、デイヴィスに至るアメリカ絵画が何であるかを理解せず、彼や他の画家たちも、“ストライプ”がクレーやシエナのドゥオーモやムーア建築にも見られることを忘れて、小うるさく全てのストライプの優先権を主張して、行ったり来たりしている——誰が最初の花を「描いた」のか? ともあれ、ニューマンとマザウェルの両氏が、この最後のやりとりで、すでに急速に失われつつある論点の議論を終わらせることに同意したことは、喜ばしいことである。(*3)」
 抽象表現主義形成期を振り返る特集インタヴューが、ニューマンの手紙によって誰が最初に何を描き、影響を与えたのかということに議論が向かい、むしろ矮小化されてしまったともいえる。あるいは、ニューマンの告発によってマザウェルのこれまでの作家に対する語りに疑義が生まれる機会となったと捉えるべきだろうか。ここでは批評の主役であるはずの作品に関する言説が抜け、作者の評伝へと変化していっている。その一方で、ニューマンをはじめ当時の画家たちの批評や言説への向き合い方、人間関係を知る上での興味深い資料ともいえるだろうし、作家が自身の正当だと思う立ち位置を主張する手法として抗議の手紙を書き、それらがきちんと掲載されたことはある種健全な言説体系といえるだろう。特に現代美術においては、作者のコンセプトやステートメントが作品を読み解く重要な鍵となる。現在では、SNSの発達により、作家たちはより自由に主体的に自身の考えを発信することが可能となった。このことによって豊かな言説空間が広がることもあれば、時には鑑賞者を巻き込み炎上することもある。しかしこの一連の言説は、同時代の社会と作品表現の関係を分析する上で貴重な資料ともなる。SNSでの遣り取りはtogetterなどまとめられ、多くの人の目に触れらることが可能となったが、体系的な資料としてどのように残され歴史化されていくのだろうか。国会図書館では、限定的ではあるが民間ウェブサイトにも個別に許諾を取りながら限定的な収集保存が始まっている。検索システムの改良の余地はまだまだあるが、インターネットアーカイヴの類もこれから発展していくだろう。ニューマン財団に保管されていたニューマンの編集部宛ての草稿を読み、批評の在り方や、作家たちとの関係性、自己の歴史化、言説のアーカイヴ化について思いつくままに書いてみた。

(*1) Barnet Newman, “Letter to the editor,” August 18, 1967[11/29], Barnet Newman Foundation Archives, New York.
(*2) 吉田侑李「バーネット・ニューマンの晩年における自己の歴史化 : ニューマン財団所蔵・一九六〇年代後半の書簡を通じて」『美術史』第67号、2017年、50-66頁。
(*3) James Fitzsimmons, Art international, January, 1968, n.pag.

 

『美術評論家連盟会報』23号