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2022年01月22日 公開

批評と〝ニューメディア〟

山本和弘
聞き手:きりとりめでる

 

きりとり:山本さんがキュレーションされた「資本空間 –スリー・ディメンショナル・ロジカル・ピクチャーの彼岸」(2015年)は、作品の「創造性が貨幣をはじめて批評しうる土壌に立ちうる」ことを中心に展開されていましたが、展覧会中の複数の文章で登場する、「作品の批評性」とはなにでしょうか?

山本和弘:作品を受容する個人と社会の価値の先入見を徹底的に破壊すること。批評とはクリネインすなわち分けるという語源からすれば、既存のこと、知っていることと、未知の新しいことの境目(クリテリウム)を作品それ自身において、受容するものに開示させる力があるということ。新しいことはいいことだ、という近代的な価値判断があるが、改めるべきものを古いと感じさせながら、その先にあるものが改善後の新しいものであることを指し示す力が作品の批評性です。

きりとり:2014年にウォルター・ロビンソンが2010年代半ばの抽象絵画の焼き直し作品の在り方(と受容層と供給層)を批判するときに「ゾンビ・フォーマリズム」という言葉を、古さの指摘、蔑称として用いた訳ですが、この既存への批判は美術批評の王道でもありますね。ただ、この「ゾンビ・フォーマリズム」以降、特定の支持体に立脚した作品の批評性が見落とされ、粗雑に作品が形式主義的と判断される言説空間が加速したと私は考えています。山本さんは美術批評での「形式主義」のコノテーションをどうとらえますか?

山本和弘:基本的に形式主義とは作品の様態ではなく、受容する主体の態度において使われるべき言葉です。作品をその形式的特質において受容した意識を言語として記述することは、I.カントでは普遍妥当性を求めるものであり、それはより多くの人々の共感を生むことにつながります。またE.フッサールに従えば、現象学的還元を施した態度で受け取られる作品受容の形式的な残余もまた、間主観性というより多くの人に共有される妥当性へと到達する、すなわち民主的な価値が採集される方法となります。形式主義とはあくまでも受容する態度、すなわち方法であり、美術における形式主義という見方を私はとりません。
 受容主体における形式主義は普遍妥当性を獲得するために不可避の批評的態度と考えますが、形式主義という言葉が対象側に付着される場合、作品そのものの劣化を表すものとして用いられるようです。「ゾンビ・フォーマリズム」が市場における素人をプレイヤーと措定しているのであれば、それはすでに劣化した生産者(ゾンビ・アーティスト)と販売者(ゾンビ・ディーラー)が責任を負うことであり、批評の担う使命ではないし、「フォーマリズム」という語彙の使用は不適切でしょう。あふれる情報をフィルタリングすれば、バッタもんをつかまされるリスクはインターネットによって大きく低減したはずです。しかし定期的に繰り返されるバブル崩壊の中に、住宅のサブプライム・ローンと同じように美術の「ゾンビ・フォーマリズム」はあらかじめ織り込まれているのです。美術批評が高く評価する作品やアーティストでさえもが芸術経済学者のハンス・アビングにかかれば、「アートワールド・オリエンティッド・アート」内存在となってしまうので、美術批評そのものもまた常にアートの外部から冷徹に批評される立場に自身をさらさなければなりません。と同時にアートには形式的に劣化した作品でさえ、詐取する力すなわち神話力があることを批評自身が根気強く訴求し続けなければならなりません。
 アーティストは長らく、芸術大学がはめ込む型枠のせいで、職人的な技術あるいはアマチュア的な技術の向上を宿命づけられてきました。しかし、そんなものは何の役にも立たない。アーティストは職人ではなく、アートとは何か、アートとは何ではないか、アートに何ができるか、アートに何ができないか、を考える人なのです。するとその答えが、個々のアーティストのコンセプトになる。いまだに手わざを貴ぶ風潮もあるのですが、それはアーティストに求めるべきではない。アーティストはコンセプトを表意する手段を、その都度選べばよい。メディアの形式という思考の枠組みは、アーティストも受容する人間をも型枠にはめるので、有効ではありません。つまり解体されるべきでしょう。

きりとり:その解体はどのように起こるのでしょうか?

山本和弘:アートのメディアは基本的には技術に従属しつつ、その技術を批評する使命を担っています。ダーウィニズムにならって、あくまでも画像の範囲でですが、進化と退行と淘汰が順次起きると私はみています。例えば、私たちは今、銀塩写真がデジタル環境において淘汰される状況をまざまざとみている。このことは新しいメディアが古いメディアを淘汰するので、自然の摂理と技術の進歩の摂理に合っている。ところが、絵画はなかなか淘汰されない。この進化に抗う理由は、唯一性への富裕層(=コレクター)の偏愛、それは富裕層を高みにもちあげる力学とパラレルですが、その偏愛に基づくことが大で、進化とは違う要因によっている。社会的には、一般庶民の仏壇の周辺には先祖の肖像としての写真はあるが、もはや絵画はない。アートの中にだけ絵画は残存している。絵画が何等かのメディアに淘汰される場面は起こりうるでしょうか。

きりとり:写真や絵画というメディアの形式は、ここでどのように機能しうるでしょうか?

山本和弘:「メディアの形式」ということであれば、ここでの議論では「ジャンル」という言葉の方が適切ではないかと思います。ただしジャンルというと並列的で非干渉的にあり、絵画と写真は別ジャンルとして逃げる余地をつくってしまう。しかし「メディア」という道具性に力点を置いた言葉を使うことによって、メディア毎のアート内における有用性と社会における有用性を比較することが可能となる。社会において無用のものとして淘汰された絵画が、なぜアート内においては有用なものとして残存し続けるのか、は非常に興味深い問題です。基本的な見方は、近代においてあらゆるものが脱神話化されてきたのに対して、アートだけは逆に神話化を強化して、極めて超然とした卓越性を社会に対して持っている。バッタもんが定期的に求められるのも同じ構造にあります。

きりとり:メディアという言葉が、社会と美術の相互相対化を可能にするのは同感です。山本さんは「現代美術になった写真」展で「アートメディア」という言葉も使われていますね。

山本和弘:「アートメディア」とは社会のために革新された技術をアートに応用したものと規定できる。やや長いスパンでみれば、石器とコンピュータはともにアートメディアとしては未熟だが、社会を駆動するメディアとしては大きなダイナミズムをもっている。メディアの前におかれる「ニュー」という形容詞は、その時代によって「nべき乗」され、「+nべき乗」のメディアに乗り越えられ、淘汰される、という仮説がある。鉄は石器から見ればニューメディアであるが、コンピュータからみればオールドメディアであるように、「ニュー」はあくまで相対的です。「ニュー」であることそれ自体は価値概念ではなく、「ニュー」が「よいこと」であるということが近代的イデオロギーなのです。石と鉄が物理的実体をもち、コンピュータが電気依存という存在の位相は異なりますが、メディアの進化を考慮するならば、かつて石に描かれた(洞窟)絵画から布や紙を経てGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)を担う液晶ディスプレイへと絵画の支持体へと転移していくことは、技術的進化からみれば当然ですが、なぜかアートはそれを許さない。アートを支える神話がそれを許さないのです。市場とコレクターすなわち富裕層は唯一性を希求するからであり、GUIは非唯一性すなわち万有性を基本とするからです。ここに技術とアートのメディアにおける進化の非対称性を見出すことができます。美術批評の一つの役割は、この非対称なアートと社会の歪みを言説によって指摘することです。その歪みはアートの神話が社会から隠蔽しつつ、アート神話自身が再生産を繰り返すものであるが、ときおりそのほころびに着目するアーティストや作品が出現します。

きりとり:山本さんは、この数十年間のメディア環境の変化をどのように考えてこられましたか。

山本和弘:半導体の技術革新は、言語変換(WP:文学)や音響(CD:音楽)からより難易度が高いといわれていた画像処理(テレビ、映画、カメラ、監視カメラ、ドラレコなど)の高解像度化と格安化を同時進行させています。その恩恵にあずかっているのは、個々の人々ではなく、国家などの権力であることはいうまでもありません。アートはそのメディアを使って当のそのメディアを批評しなければならない。これはモダニスト、先に言及したカントの批判哲学の延長線上にある批評の方法と重なります。権力による自由の制御を隠蔽することにかり立てられているこのメディア環境を、はたして批評しうるアートがありうるのか否かを見極めるときにきています。
 私が目撃してきた限り、絵画を絵画によって批評しようとする空しい努力をするアーティストと作品は少なくないが、支持体をGUIに移設して絵画を批評しようとする作品とアーティストはいまだない。絵画をより進化したメディアである写真を退行させることによって、絵画メディウムで絵画を間接的に批評しえたG.リヒターに対して、写真を写真メディウムそのもので批評しえたT.ルフの業績を多としたいが、同じようにGUIによって、写真そして映像、さらに絵画を批評しうる作品の登場はありえるのでしょうか。

きりとり:GUIを批評しうる作品は少なくありませんね。GUIの意匠における、マテリアルデザインとフラットデザインの往還、つまり人間の短期的なものの見え方の慣習の変化を扱った立体作品としてはヌケメ、それをドットの挙動に絞る映像と絵画作品であれば山形一生、ソフトウェアスタディーズ的な写真作品としては永田康祐を挙げたくなりますが、ここでの批評する立場としてのGUIとは、画面の振る舞い全般のことでしょうか。

山本和弘:〝ニュー〟アーティストは社会有用的なGUIの背後に隠蔽されがちなGUIそのものとそれがアートと社会を批評する作品へと必然的に向かいます。GUIアートはいかにメディアアートのレッテルを逃れ出て、絵画、写真、映像そしてゾンビ絵画の現在位置を危ぶませうる批評性を当のメディアと〝オールド〟メディアとの間の進化と退行の差異として顕在化させられるか否かが問われます。きりとりさんに倣って具体例を挙げるならば、GUIを絵画メディウムに退行的にフィードバックさせる梅沢和木の方法は、写真を絵画に退行させたG.リヒター、映像を絵画に退行させたS.ポルケの方法とパラレルなのではないかとみています。ただし、〝ニュー〟の「-nべき乗」メディアを用いる批評は、ある種のわかりやすさと市場迎合性をももちうるので、GUIそのもので絵画の理念それ自体を批評しうるより難易度の高い方法が求められるかもしれません。

きりとり:メディア環境の変化は、作品のどのような批評性を求めているでしょうか。

山本和弘:例えば、ひと昔前には銀塩にバカにされていたインクジェットが、写真のような平面画像の世界を超え出て、精密機器や巨大建造物を構築する3Dプリンターへと進化している。かつてドン・ジャッドが絵画のイリュージョンを特殊3D物体へと不可避的に進化させたのと、精度の次元を各段に向上させた技術が現実の技術環境で起こっています。描く技術の変種であるインクを超精密に噴射する技術が、立体物を建造する技術となっている。平面制作技術がそのまま立体制作技術へと移行していることは、ミニマルアートが技術に先駆けていたことの証拠であると同時に、批評性を欠いたアートはかつてのアートをシミュレートしながらモンスター化する技術に盲目であってはならないことを示しているのです。かつて洗練された技術としてこの世で重宝されたアートが、世界を批評する技術として期待される。しかしそれもまたごく一部の富裕層の所有物へと回収される宿命をいかに批評するかが問われています。
 民主的な支持体である電気に担われる作品よりも、石や布や紙にになわれた作品が重宝されるアートの反〝ニューメディア〟的状況は、アートが極めて限られたプレイヤー同士の内輪で循環している構造をみれば誰にも了解されるでしょう。アートの鑑賞を趣味とする一般人の増加は、唯一性を誇れるアートの所有者の卓越性を高めることこそすれ、けっして低下させることはありません。
 かつて畠中実はメディアアートという名称の差別性について言及しましたが、GUIアートがデジタル技術を批評するにとどまらず、絵画をも批評しうるか否かは、石器時代的思考が残存するアートワールド・オリエンティド・アートのプレイヤーの所有欲を掻き立てるのではなく、所有欲を減退させる作品の批評性を発揮しうるか、そしてアートを民主化しうるかにかかっています。かつて石は絵画の支持体であり、貨幣でもあったのですから。

『美術評論家連盟会報』22号