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2022年01月22日 公開

追悼イトー・ターリ、あなたを忘れない

小勝禮子

 

 私がイトー・ターリを初めて知ったのは、1998年11月、東京都写真美術館での公演《私を生きること》だった。笠原美智子の企画「ラヴズ・ボディ」展の折りである。ターリは、その少し前の1996年から、自身がレズビアンであることをカムアウトするパフォーマンス《自画像》を発表し、大きな転機を迎えていた。《私を生きること》は、母と自分の関係をテーマにし、作り物の大きな女性器で、セクシュアリティを引き受けるものだった。
 その後の活躍も目覚ましい。自分がセクシュアル・マイノリティであることを公にしてから、それによって、社会の中で見えないものにされた事への「応答」に導かれ、日本軍「慰安婦」、沖縄の基地と性暴力、福島の放射能汚染などを次々とテーマにした。個人としての活動だけではなく、ウィメンズアートネットワーク(WAN)(1994―2003)を組織し、「越境する女たち」展を開催(2000―01)、人が出会う場としてのPA/F SPACE(2003―13)を運営するなどした。
 栃木県立美術館の「アジアをつなぐ―境界を生きる女たち」展でも公演してもらったが(2013年3月)、そのときすでにイトー・ターリの身体には異変が起きていた。それについては、ターリ自身が連載ブログで語っている。(「わたしの言葉を。」vols.1―7 ラブピースクラブ、https://www.lovepiececlub.com/column/15028.html
 筋萎縮性側索硬化症ALS、ターリの場合、進行は遅く、その宣告を受けたのはだいぶ後になってからだという。その間しばらく休止していたパフォーマンスを、2019年6月、《37兆個が眠りに就くまえに》で再始動(東京都美術館)。同じく8月(ギャラリー・ブロッケン)と10月のカナダ、バンクーバーでも再演。さらに2021年4月に、Vol.2《自分で額を撫でるとき》を公演した(工房親、非公開)。9月22日、突然逝ってしまうとは誰も、おそらく本人も予想しなかったことと思う。イトー・ターリの人と表現は、いつまでも私たちの心に生きている。あなたを忘れない。

https://asianw-art.com/ito-tari/
https://ipamia.net/tari-ito/

『美術評論家連盟会報』22号