会長退任にあたって 異化と包摂|美術そして美術評論の可能性

[NEWS]  2026年01月03日 公開

四方幸子(2022-2025年会長)

4年の間、本連盟の会長を務め、2025年末で満期終了となる。
私は2014年に会員となり、その直後に開催された連盟創立60周年記念シンポジウムに登壇、その後『会報』への複数回の寄稿を経て、2019年にシンポジウム実行委員長となった。シンポジウムは、新型コロナウイルス感染症の猛威により対面を断念し、2020年にオンラインで開催、また2021年 には常任委員に就任した。
2021年は、連盟において試練の年であった。連盟からのアーツ前橋に関する市への意見書とその撤回、林道郎会長の辞任・退会という状況の中で、ピンチヒッター的に会長職を引き受けた。そのため、当初から一期のみの担当を想定していた。
この4年間、予想外の案件も多々あったが、大きな問題や事件もなくここまで来ることができた。ひとえに事務局、常任委員、各WGメンバーの尽力をはじめ、会員の皆さんのおかげである。この場を借りて、心から感謝の気持ちを伝えたい。任期中、少しでも活動をアップデートでき、連盟や美術評論の存在意義を社会に広く知っていただく契機となったなら、それに勝る喜びはない。

この4年間は、就任時に提起した「3つのコミュニケーション」の活性化を念頭に、微力ながら活動してきた。一つ目に連盟内つまり異なる分野や世代にわたる会員相互のコミュニケーション、二つ目として国内における連盟からの情報発信、三つ目に国際美術評論家連盟内でのネットワークである。
新たに開設したのは、会員用の情報共有プラットフォーム(Discord経由)、会員自身が投稿できるサイト「美術評論+」、WGの立ち上げ(国際関係WG、ハラスメント防止・意識啓発WGなど)がある。また念願であったWebのリニューアル(2024年)、2024年の連盟創立70周年記念アンケート、2025年の5年ぶりのシンポジウム開催がある。開催したトークやシンポジウムは、YouTubeチャンネルで、アーカイブとして公開した。また会長就任前からWGが立ち上がり準備段階にあった「ハラスメント防止のためのガイドライン」(2022年)、共同意見の発出方法(2022年)、新定款(2023年)の運用を開始した。
連盟の重要な役割として、表現の自由や検閲をはじめとする、美術における社会や政治的な抑圧や諸問題に対して発出する共同意見(有志からの提起を検討の上、連盟として発表)があるが、この4年間で3回実施し、善処がなされる結果もあった(岡﨑乾二郎によるパブリックアートが保存へ)。また国際美術評論家連盟による ウクライナへの軍事侵攻に関するステートメントへの賛同(2022年)、ガザ戦争(パレスチナ・イスラエル戦争)に対する意見表明(2024年)を行った。
そのような中、毎年刊行してきた『会報』が、2023年、2025年と休刊になった(そのため従来『会報』に掲載されてきた退任挨拶を今回は「NEWS」ページの掲載とした)。「美術評論+」により、一部を補完できるようになったこともあるが、(『会報』に限らず)連盟の活動に携わ(れ)る会員が減少したと感じている。

それには大まかに以下の理由があり、互いに絡み合っている。一つ目は、経済的側面である。美術界を取り巻く状況が年々厳しくなっており、海外と比較しても収入が低い。二つ目に、時間的側面。組織所属やインディペンデントに関わらず、会員の多くが多忙を極め余裕がないこと。三つ目は意識的側面で、個人のアソシエーションとして、無償で役割を引き受けてきた前提自体が揺らいでいる。四つ目に、時代・世代的側面である。デジタル化の進展によってオンライン・コミュニケーションが主体となった。世代交代も相まって自律的に連盟を支える地盤が脆弱になり、一部の会員に業務が集中しがちである。広く会員で分担できないかと願ってきたが、道のりは遠い。00年代頃まで維持されてきた互助の気風は薄まっても、贈与文化的な思想を共有することは無理なのだろうか。

連盟は、創立当初、建築やデザイン、写真評論家、建築家など様々な分野の専門家が在籍したが、その後は美術評論家が中心の時代がつづいたようである。現在は、美術評論家に加えてキュレーター、もしくは兼任、また美術館の学芸員も多い(私もその一人である)。それに対して批判的な意見を聞くこともあるが、時代を反映していると思う。
そもそも私は、美術評論とキュレーションは対立するものではなく、相互補完的かつ往還的なものとみなしている。近年、学術分野においても、理論だけでなく実践を行う研究者が増加している。そこでは身体性や空間性、そして人間や人間以外と関わるプロセスや体験の共有が重視されている。いわば「コモンズ」的な知の実践であり、創発の連鎖を生み出すものと言えるだろう。
美術評論や美術評論家のあり方自体が、批評性を保ちながらも、時代に応じて(先んじて)変容していくことこそ、自然である。それはコンセプトそして態度的な側面に加え、メディアにおいても同様であり、批評がテキストに加えて音声や映像へと拡張し、より広い層へと発信しインタラクションすることが重要になっている。
21世紀の半ばへと向かいはじめた現在、美術も社会の状況も大きく変容している。その中で美術評論は、美術や評論の存在意義と可能性を未来に向けて牽引していくミッションを担っている。それは美術や評論のためだけでなく、社会そして世界のためでもあるだろう。

この4年間、世界はますます困難な状況に突入した。気候変動、紛争や戦争、メガ企業の席巻、アルゴリズムによる支配、格差の拡大、右傾化…そしてこれらへのバックラッシュ。美術においては、西洋近代を基盤にした土台そのものへの問題提起がなされている。表現の自由、格差やハラスメントの是正を求める作品や行動、収蔵品の来歴の追求と批判などである。
また生成AIの日常への急速な普及による制作や創造の変化が、現実的な課題となっている。同時にそれは、アーティストや評論家、キュレーターなどの領域を人々の参入へと開き、同時に専門家が存在意義を問い直しリジェネレイトする契機を提起している。美術や美術評論は、未来へ向けて異化を差しはさみ、それによって人々や社会を自由にしていくよすがとなる必要がある。
技術は人々を陶酔・麻痺させ、欲望を稼働させる。欲望は、「何のために」「誰のために」という問いを喪失させつつ加速しつづける….。
現在、根本的な地殻変動が、人間、そして世界において起きている。グローバルに稼働するアルゴリズム、それを推進する企業は、すでに私たちの生活や行動を支配している。目先の利便性や快楽に委ねてしまい、本質的な問いを先送りしつづけること。気づいた時には取り返しがつかないのではと感じながらも、直視せずアパシーへと逃避しがちな日々。それは自身のみならず、現在そして未来の世界への責任を放棄することでしかない。
美術は、さまざまな人為的な境界に対して、異化を持ち込みうる、ぎりぎりそして最後の手段である。それはまた、他者や弱者に寄り添い包摂しうる場そして力を秘めている。アーティストは投企として作品を放ち、それらは見る側の想像力に委ねらていく。そこでの「作品」は、アーティストと解釈する側のコラボレーションとして浮上する。そこでは双方において、能動的な自己責任、つまり自身そして他者、ひいては非人間へと至るケアや思いやりの精神が稼働するだろう。被抑圧者がより弱者を抑圧するという負の連鎖でも、弱さを自覚する者が過剰な攻撃に走るのでもなく。敵対ではなく、各自の差異を認めながら、対話し共存していくこと。そのような余白を美術は開いているし、美術評論は、そのことを念頭に、美術そして人々をより深い気づきや省察へと開く、第三項としての「コラボレーター」と言えないか。
美術評論は、美術そして文化や社会、また政治や経済、環境など諸領域をつなげ、それらが絡まり合ったより多様で豊かな生態系を生み出していく端緒となりうるのではないか。それぞれが創造性・批評性を持ち、ともに生きようとすることが世界を形成する原動力となること。その可能性を信じながら、私は今後も美術に関わっていく。

2025年12月28日 十和田にて