レポート「 新たな「制度論」は語れるか」

2020年07月15日 公開

黒瀬陽平(美術家、美術批評家)*会員外

 2020年3月以降、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大を受けて、様々な文化活動がなんらかの「自粛」を「要請」されている。2019年のうちにテーマ(「文化/地殻/変動」)が決定していた本シンポジウムもまた、コロナ禍の影響で、会場での対面型開催からオンライン無観客開催に変更を余儀なくされたという。とはいえ、コロナ禍によってすべてがリセットされたわけではない。情報産業の急速な発展を受けて「文化の地殻変動」がどのように進み、芸術がどのような変質を迫られているのか、といった当初から想定されていたテーマは、むしろ、コロナ禍によっていっそう切実なものになった。したがって本シンポジウムは、コロナ以前/以後の断絶ではなく、その連続性を強く意識しつつ議論が進められた(その経緯やコンセンサスについては、冒頭の林道郎会長による挨拶と、モデレーターである四方幸子のイントロダクションのなかで述べられた)。

 五名のパネリストから提示された論点は、概ね次の2つに要約することができる。ひとつめは、既存の美術館や展覧会の制度、形式への批判。ふたつめは、ポストヒューマン的主体によるアートの可能性、である。この2つの論点は相互に関連しており、切り分けて議論すべきではないのだが、本稿は「レポート」であるため、順を追って説明してゆくことにする。
 ひとつめの論点は、同じコンテンツを同時に、同じように体験し、共有するという既存の展覧会形式への批判であり、大量の観客を動員する、いわゆる「ブロックバスター展」に依存する美術館の在り方への疑問符として議論された。もちろん、この種の批判は特に目新しいものではない。しかしコロナ以後、このような「現在の共有」による動員、展覧会モデルは「三密」であるとして、なによりも疫学的観点から否定され、端的に「感染リスク」として退けられるようになった。
 そのような現状認識を前提に、議論は「現在の共有」モデルではない展覧会や美術館の在り方へと向かっていくが、その内実はきわめて抽象的なものに留まった。たとえば木村絵理子は、「現在の共有」モデルである「メガミュージアム」に対して、より個別的な体験を、個別に提供できる「マイクロ・ミュージアム」が求められるのではないか、と指摘し、その事例として2020年2月に金沢21世紀美術館で上演された、チェルフィッチュ×金氏徹平による『消しゴム森』を挙げた。『消しゴム森』は、毎日四時間の「上演」を、美術館内の複数の展示室で同時多発的に行う、というもので、観客は上演の全体像を把握することができず、主体的に部分を選択し、バラバラで個別の鑑賞体験を強いられることになるという。
 しかし周知のように、木村が言及するこのような上演、展示形式は、歴史的には遅くとも1960~70年代の前衛美術、前衛演劇において成立しているし、現在に至るまであらゆるジャンルで試みられてきた。そして半世紀近く経っても、少なくともこのような上演、展示形式のみによっては、メガミュージアムは解体されていない。だとすればそれらは、「マイクロ・ミュージアム」のヒントであるというより、メガミュージアムに陳列可能なスタイルとして取り込まれているのではないか。
 岡﨑乾二郎は、ショーヴェ洞窟の壁画を例に挙げる。壁に重ね描きされた複数の虎の絵は、同時期にすべてが描かれたのではなく、なかには絵と絵の間に三千年ほどの時差があり、ひとつの壁画のなかで時間や種を超えた「制作」の共有が行われていると指摘した。それを受けて住友文彦は、アーティスト・イン・レジデンスで滞在するアーティストたちが、リレーのように作品を制作し、残してゆくイメージを語った。たしかにショーヴェ洞窟壁画の例は、「現在の共有」モデルに対するオルタナティブとして、理論的には有効である。
 しかし一方で、いみじくも住友がアーティスト・イン・レジデンスを連想したように、岡﨑のモデルは「作品」と「作家」の側から組み立てられている。だとすればそのモデルのなかで、「観客」はどこに位置づけられるのだろうか(あるいは、観客は存在しないのか)。既存の美術館や展示形式、制度を批判し、新たなモデルについて考えるのであれば、そこに訪れる新しい観客についても想像するべきであり、それこそが「マイクロ・ミュージアム」的なものの具体的な可能性だろう。
 本シンポジウムを通して、制度批判こそ盛んになされたものの、制度論のなかで新しいモデルを提示できず、作家や作品を特権的に扱うことで観客論がなおざりにされる、という構図があったことは指摘されるべきである。

 ふたつめの論点、ポストヒューマン的主体によるアートの可能性については、長谷川愛が紹介していたPei-Ying Linによる「ヒトとウィルスとの出会いの可能性」を探ってゆく『Virophilia』(2018-)や、ドミニク・チェンの「ぬか床」の微生物と対話するシステムなどによって提示された。
 人間にとっての「他者」であるウィルスや微生物と対話する、またはそれらの視点になろうとする作品は、近代的な人間中心主義からの脱却の試みであると同時に、「未知のウィルスとの戦い」に奔走し、そして敗北し続けている昨今の状況に対して、批評的な視座を与えるだろう。
 しかし岡﨑は、どれだけアートが「他者」を扱おうとしても、それを「理解」しようとしている時点で人間中心主義的な共有モデルにすぎないと指摘し、主体を人間に置くのではなく、事物や技術を主体として考えるべきだと主張する。つまり、人間と人間が事物や技術を通してコミュニケーション、共有しているのではなく、事物や技術がそれを使用する人間(エージェント)を通して再生産されていると考えるのである。
 岡﨑によれば、ひとつめの論点で議論された既存の美術館や展覧会の問題、つまりコロナ禍においてその限界が露呈したブロックバスター展などは、人間中心の共有モデルの問題である。一方、事物が主体である再生産モデルであれば、大量の人間が同時に集まり、その現在を共有する必要はなく、コロナ禍によって破綻することもない。ここで、ひとつめの論点とふたつめの論点が接続され、もし人間が滅んでも事物(作品)が残る限り、芸術は存在し続ける、という「希望」が語られた。

 ひとつめの論点でも確認したように、人間中心主義的な共有モデルの批判として、事物の再生産モデルは有効である。とはいえ、事物の再生産モデルがそのまま「希望」になるわけではないだろう。
 たとえば、ひとつめの論点で批判を浴びたブロックバスター展を、事物の再生産モデルで捉えるなら、SNSに最適化したブロックバスター展もまた、SNSという事物、技術、道具によって再生産されていると言えるのではないか。だとすれば、SNSの再生産であり、エージェントとして「疎外」された人間が動員されているブロックバスター展を、人間中心主義的な共有モデルとして一蹴するだけではなく、事物の再生産のバリエーションとして批判的に検討するべきである。
 このような議論を前に進めるためには、たとえば「ソフトウェア」と「ハードウェア」、「アーキテクチャ」といった概念を用いた、より精度の高いメディア論が必要だろう。しかし、残念ながら本シンポジウムでは、既存の制度のオルタナティブを提示できない制度論に対して、技術論や作品論の立場をぶつける、という構図を確認するに留まった。

 筆者の考えではおそらく、本シンポジウムで提示された最も重要なキーワードは「教育」である。岡﨑は、事物の再生産モデルを説明するために、大学院の研究室のような、少人数で技術の伝授を行う「教育モデル」と同じであると発言していた。
 ひとつめの論点とふたつめの論点を通じて、教育モデルがどのように位置づけられるのかは、きわめて重要な問題である。教育モデルから考えれば、共有モデルの展覧会、美術館に対しては「学校」というオルタナティブが与えられるだろう。学校のなかでは、展覧会と観客、作品と作者といった関係性とは別に、教師と生徒の関係がある。さらに言えば、教師と生徒の間で事物の再生産が行われると考えれば、生徒にとって教師は事物であり、生徒が技術を習得すれば、その生徒もまた、次の生徒にとっての事物となる。
 このように、事物の再生産モデルから解釈された教育や学校についての議論こそ、ふたつの論点の突破口だったはずである。制度論のカウンターとしての事物の再生産モデルが結論なのではない。技術論、作品論から捉え直された教育モデルによって既存の美術館や展覧会制度を解体し、その上で、新たな制度を議論すること(学校のような美術館にとって観客とは何か、教育のような展覧会にとって作品とは何か)。それこそが、本シンポジウムに求められていたのではないだろうか。