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2020年11月14日 公開

『issues』、そして作家との共闘
2000年代 集団的活動の模索

土屋誠一

 

 私は、1999年に、それまで一切美術の勉強をしたことがなかったにもかかわらず、ひょんなきっかけで、多摩美術大学の修士課程の、理論系のセクションに入学した。入学したはいいが、いったい何を勉強したらいいか途方に暮れつつ、本や雑誌で名前を聞いたことのある教員の授業に出席したりしていたが、ある時、芸術学棟(現在の八王子キャンパスにあるそれとは異なる)最上階の片隅にあった、「現代美術資料センター」という一室で働いていた、松井勝正、上崎千の両氏と知り合うことになる。松井氏、それから既にエディトリアル・デザイナーとしての活動を開始していたはずの森大志郎氏、多摩美に在籍していたわけではないが、当時はジル・ドゥルーズの芸術論について研究していた石岡良治氏が同級生で、私が彼らと知り合った時点で既に、彼らは岡﨑乾二郎氏の作品と批評とに、深刻な影響を受けていたようだ。その前段には、『批評空間』の臨時増刊号として1995年に刊行されていた、岡﨑・浅田彰・松浦寿夫の編纂による『モダニズムのハード・コア』の刊行の反響が大きかったはずだ(私は、学部で開設されていた松浦氏の授業に潜り、週1回非常勤で訪れる彼に、金魚のフンのようにくっついて行動していたことを、恥ずかしく思い出す)。
松井とその後輩にあたる上崎を中心として編集されていた『issues』(多摩美術大学大学院美術研究科芸術学、1997-2002年頃)という雑誌(5号まで出たはずだ)があり(2号から、森のエディトリアル・デザインとなる)、その編集過程や日々の雑談、あるいは定期的に開催される研究会などで、関心の中心に据えられていたのは、20世紀初頭から概ね1960年代ぐらいまでにかけての美術作品に対して、フォーマリスティック、あるいは『October』で実践されていたようなポスト・フォーマリズム的な観点から、どこまで面白い切り口で語り直すことができるのか、ということだったように思う。単に人脈の問題と言ってしまえばそれまでだが、興味深いのは、八王子の多摩美の山奥と、駒場の東大の表象文化論とが、在学生や既卒修了者である若者同士が、地理的にも大学のランク的にも異なっていたにもかかわらず、関心を共有していたという点であろう。松井や上崎のほかに、『issues』への執筆者として、近藤學、藪前知子(彼女は学習院大に在籍していた)、三輪健仁、そして私、といった面々が思い出される。ただ、これは私見ではあるが、概ね私たちにおいて共通していたことは、同時代の美術作品、あるいは美術業界に対して、無関心であったし、業界的な人間関係に対して、ある種の忌避感すら感じていた、ということであったように思われる。美術作品に対峙し、それに対して思考をめぐらすこと以外のことは、不純なものであったと感じていたのだと思うぐらい、潔癖だったのだろう。
 とはいえ相対的に世俗的な野心のあった私は、そんな知的環境において美術への関心を亢進させつつ、2003年に『美術手帖』から批評家デビューすることになるのだが、それをきっかけとして同時代美術と否応なく付き合いつつも、当惑したのは、『issues』周辺で実現できていたような、美術作品をめぐっての(アマチュア的ではあったかもしれないが)濃密な議論の場が、どこにもないということだった。私が美術、というよりも写真という表現媒体とその作品に対して言及する機会が多かったのは、デビュー直後に、既に先鋭的な自主ギャラリーとして活動をスタートさせていた、photographers’ galleryのメンバーの面々、特に北島敬三氏との出会いが大きかったことを今にして思う。それは端的に、写真家である北島の作品や彼の議論が、知的に極めて面白かったからにほかならない。少なくとも私の関心の範囲で言えば、美術家の議論よりも、写真家の議論のほうが、よほど知的に関心を惹くものであったというわけだ。事実、『photographers’ gallery press』の影響力は、かなり大きなものであったと思う。
 写真表現の領域はともあれ(写真もまた、美術という領域と無関係ではないのだが、写真と美術との微妙な業界的棲み分けがあることは、今日も残存しているはずだ)、美術業界において私と同じような苛立ちを感じていたのだと思われるが、田中功起氏らが「芸術の山」という美術の言説に関わる活動を、2005年にはスタートさせていたし、田中はその後も「言葉にする」、「質問する」といったシリーズにおいて、言説の場を自ら形成することに注力していた。私もまた、2009年には美術家と批評家との濃密な議論の場を形成しようと、アーティスト・ラン・スペースであったBOICE PLANNINGの雨宮庸介、佐藤純也と共謀して、「美術犬(I.N.U.)」というという集団の活動を開始させていた(第1回のシンポジウムには、田中もゲストで登壇。活動途中から、青山悟もメンバーに参加)。他にも、同じような活動はあったと思う。共通して言えるのは、好意的に言えば、今日につながるアート・コレクティヴの萌芽と評せなくもないが、実質的には散発的あるいは短命で、持続的な議論の場の形成や言説上の問題点の共有といった、生産性には結びつかなかったと診断せざるを得ないのが実際のところだ。
 ただ、美術についての議論が深まったかどうかは別としても、以上のような集団的活動の試み(とその失敗)が、私自身の活動で言えば、私が呼びかけ人を務めた「反戦 来るべき戦争に抗うために」展(SNOW Contemporaryにて2014年開催。佐藤、青山、田中も出品作家として参加している)のようなアクティヴィズムに繋がったことは付言しておきたいところではある。とはいえ2000年代初頭に夢見られた、美術の「言説」における協同は、拡張・拡散していく美術の同時代的な変選のもとにおいて、夢は夢でしかないことに自覚せざるを得なかった、最後の夢見であったのかもしれない。

 

『美術評論家連盟会報』21号