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2020年11月14日 公開

パフォーマティヴな批評の不在
世紀の転換期をはさんで

杉田敦

 

 ある時代を総括するというのは乱暴な行為だ。とりわけ自分が実際に体験している場合、他人の手による描写に違和感を覚えることになる。最近も、90年代を総括する展示があり、それを踏まえた論考が発表されたが、まったく別の世界に関するものであるかのような印象だった。とりわけその論考は、広く資料にあたった労作ではあるにもかかわらず、件の違和感を拭い去ることはできなかった。もちろん、ここでのテキストも、同じ道を辿る危険はあるのだが。
 ところで、最初にこうした後ろ向きの言葉を並べたのには理由がある。90年代に隆盛するポスト・コロニアル思想の大きな成果のひとつは、西洋で教育を受けながら、その充実ばかりに腐心したわけではない書き手たちが、必要に応じて表面上その文法に則りながら、孤絶してきた思想を展開してみせたことであり、またそのテキストが、ポスト・モダニズムを契機に注目されるようになったパフォーマティヴな性質を帯びていたということだ。
 パフォーマティヴ、いうまでもなくそれはジョン・L・オースティンらによる言語行為論を源とするもので、その在り方そのものに拘泥するとジャック・デリダやジュディス・バトラーらによる議論の混迷に分け入らざるをえなくなるが、けれどもそれを避けて、対立概念であるコンスタティヴという性質を相対化したことに焦点を絞って検討してみることはいまだに意味を失っていない。おそらくそうした姿勢は、90年代から00年代にかけて真剣に試みられたはずなのだが、こと芸術という領域に限れば、表面的に話題になることはあっても、何事もなかったかのようにコンスタティヴなものばかりが生産されていたように思われる。ポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズ的な思想から、実践性や、あるいはここで言うパフォーマティヴを除去し、学問的な純粋性による下位互換が可能だという奇妙な誤解が生まれたのはなぜだろうか。個人的には、2001年に強制執行が行われた東大駒場寮問題で、表象文化系の研究者が大学側の立場に手を貸したことが象徴していたと考えている。いずれにしても、パフォーマティヴは行き場を失い、コンスタティヴなもの、あるいはそう欲望するものばかりが蔓延ることになる。時代の概観という僭越は、そうした傾向の一端を示しているに過ぎない。
 しかし限られた個人の視野のなかではあるものの、パフォーマティヴな言及の在り方について考えさせられたものがなかったわけではない。そのひとつは、1998年から2007年にかけて出版されていた『etc.』という展覧会情報誌だ。言水ヘリオという一人の編集者による小ぶりの雑誌は、情報端末の普及以前は、展覧会回遊者にとっては欠かせないものだった。利便性は言うまでもないが、驚きだったのは情報の等価性だった。芸術系メディアは展示情報を峻別し、価値判断とともに提示するのが常だが、『etc.』は、規模の大小、有名無名を問わず、あらゆるものを等しく扱っていた。当時は、それには触れないと公言する者さえいた貸し画廊の展示までを含めて等しく視線を送る姿勢は、ある意味で倫理的で、ひとつの態度表明であるとともに批評そのものでもあった。一方、『etc.』に比べれば十分過ぎる規模のその他のメディアは、先に触れたコンスタティヴへの疑義を含んだ思想を一瞥することはあっても、その実、それとは逆の姿勢に留まり続けることになる。笑うことさえできない酢豆腐のような後味の悪さ。
 『etc.』と同じような批評性は、分野は異なるが『TV bros.』(東京ニュース通信社、1987年ー2020年)という情報誌にも感じることができた。放送局の意向を無視して展開される番組批判は、構造的にそれを手にしていた『etc.』と似た倫理的な解放感をまとっていた。ナンシー関らの個性的な書き手は、業界に組み込まれつつも権力から自由であることが可能であることを示すだけでなく、普遍性などはなから気にかけず、固有の見地にこだわるその姿勢はパフォーマティヴと読むこともできた。とりわけ印象に残っているのは、忌野清志郎の連載だった。業界の内と外を、虚実入り混じりながら描いていくそれは、容易にポスト・コロニアリズムのテキスト群を想起させてくれたのを思い出す。ちなみに、個人的に彼のことをリスペクトしていたということはなく、むしろとある新聞紙上では批判めいたことを書いたこともあった。そう、つまり期待はしていなかったのだ。それだけに、目にしたテキストは驚きだった。
 少なくとも、限られた経験のなかではあるが、芸術に関係する分野において、それに比肩するものと出合う機会には恵まれなかった。そう、言うなれば、双六問屋は死に瀕していたのだ。そして……。00年代後半になり、CAMPに代表されるディスカッションを中心としたイヴェントが多発するようになると、コンスタティヴに微睡んでいた書き手たちは、否応なく行為の渦中に投げ入れられることになる……。

 

『美術評論家連盟会報』21号