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2020年11月14日 公開

作品の具体性へのフォーカス
2010年代 再び芸術作品をめぐって

沢山遼

 

 筆者が本格的に美術批評の執筆をはじめた2010年頃から、複数の美術批評誌が並行して現れてきた。筆者が関わったものだけでも、『ART TRACE PRESS』(ART TRACE、2011年−)『ART CRITIQUE』(ART CRITIQUE constellation books、2010年−)『組立』(『組立─転回』とも。組立、2010年−)があり、2008年からは、批評家と美術作家の協働によって書籍の発刊と展覧会を実施する「引込線」(埼玉県所沢市各所)もはじまっている。また筆者自身も、2012年以降、Yumiko Chiba Associatesを母体として、「Critical Archive」なる批評集のシリーズの企画監修に関わってきた。これらの発刊が同時期に集中したことには、なんらかの同時代性が避けがたくあったのだろう。それらの多くについて、筆者はたんなる執筆者として関わっただけであるから、そうした雑誌が発刊された目的や動機などについて多くは知らない。
 だが、これらの雑誌媒体の一つの特徴として、多くの割合で美術作家が関わっているという事実が挙げられる。たとえば2014年の『組立─転回』には、「『組立─転回』は画家による美術批評誌です」と明記されている。筆者もまた、ごく小部数で発刊される(商業誌とは明らかに一線を画す)これらの雑誌に、芸術運動に参加するような気持ちで関わってきた。また、画家で批評家の松浦寿夫氏が多くの割合で参加していることは、これらの雑誌の性格を端的に示していると言えるだろう。つまり、これらの雑誌に参加してきた作家たちにとって自明であったのはおそらく、「作品」と呼ばれる事物をつくりだすことそれ自体が、同時に理論的な営為でもあるというごく端的な事実である。芸術作品と呼ばれる事物そのものを内側から支え、その連続的な制作を可能にするのは、芸術作品と呼ばれる事物そのものの内にはらまれた知的な枠組みである。そのような知的な枠組みを支える意志が作品制作を駆動させる。ゆえに、批評の使命の一つは、それらの事物のうちに潜在する理論的な可能性を引き出すことにある。
 しばしば批評は一種の「翻訳」行為であると言われる。しかし、であるがゆえに、翻訳者の翻訳と同じく、作品がもつ意味作用とまったく同じ内容を批評が伝達することは不可能である。批評もまた、自らの言説のうちに、記述対象に対する、なんらかの捨象、圧縮、変換、創造、誤読を経験することになるからだ。だが、同時にそのような行為が批評において可能になるのは、そもそも作品それ自体が一個の批評=理論にほかならないことも意味している。批評は、作品制作の根拠となる理論的営為とは別に外側から与えられる言説活動ではない。そのため批評は、その理論的な性格においてこそ、必然的に、作品(あるいは作家)となんらかの協働性をもつことを余儀なくされる。そして、複数の異なる主体を横断してなされる芸術活動もまた、作品そのもののうちに眠る理論的可能性によってこそ伝達され、継承される。であれば、批評を行なうことは、その伝達、継承の可能性を言説の水準において維持し、賦活することである。
 一般に、このような異なる他者から他者への伝達、継承の方法は「教育」と呼ばれる。だから批評は部分的に「教育的」機能をもつ。が、現代の美術大学などの教育の現場において、理論は尽く軽視されていると言ってよい。現在の美術大学においては、先行する芸術作品に内在する批評的=理論的可能性を、現在時において「別の知性」へと展開する能力を個々の作家のなかで力動化する作業は、ほぼ排除されている。だが、芸術作品であれ、職人的な技芸が必要とされる工芸であれ、(あるいは農作物でも建築物であってもなんでもよいが)生産物の継承可能性が途絶えた現場が、新たな生産の拠点にはなり得ないのは自明である。
 発刊された『ART TRACE PRESS 01』をかつて受け取ったとき、筆者は、この雑誌は、美術教育の現場で失われたものを、誌面において補完するものとして企図されたのだろうと思った。日本の執筆者の論考だけではなく、同誌が重視するのは、外国の論者(たとえばロザリンド・クラウスやマイケル・フリードら)の翻訳である。この編集方針には、従来の日本の出版メディアが重要な海外の美術批評の翻訳を怠ってきたことに対する潜在的な批判がある。そして、なによりも、文献の翻訳によって、学生を含む実作者たちがこれらの外国語文献にアクセス可能になったという意味で、同誌の存在は「教育的」だ。そして、同誌3号がアメリカの芸術教育機関Black Mountain Collegeを特集したことの意味もまた、現在の美術教育がかかえる危機と隣接していたはずだ。
 そしてそこには、批評が本来もつ、別の「教育」的機能もあったように思われる。クラウスおよびフリードは、クレメント・グリーンバーグのいわゆるフォーマリズム批評を出自とし、かつ、のちにそこから離反したことによって共通している。だが、彼らの批評には、作品と呼ばれる事物の具体性に踏みとどまろうとする、フォーマリズム批評の「倫理」的精神が残存する。文献学的な事実関係の修正に終始し、芸術作品がはらむ理論的体系を軽視する研究姿勢の趨勢に対しては、作品の事実と構造に即したフォーマリズム的な批評態度こそが重要であるとするイヴ゠アラン・ボワのような人物がクラウスと長らく協働関係を構築できたのも、このことともちろん無関係ではない。
 作品と呼ばれる事物は、具体物であるがゆえの具体性をもつ。そして、作品の理論的な体系は、具体物の具体性(=その細部)においてこそ示されている。したがって、そのような具体物の具体的局面を記述する批評もまた、批評として具体性をもつ。
 だから有用な批評は、つねに、具体物の具体性を備えた一種の「道具」として機能する。そのような批評だけが、未来の制作者の制作を鼓舞する。

 

『美術評論家連盟会報』21号