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2020年11月14日 公開

美術という視点

大倉宏

 

 宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書)にこんな記述がある。
 伝統社会では、「文化」はつぎのような意味をもつ。「社会的に伝えられる行動様式、技術、信念、制度、さらに一つの社会ないしはコミュニティを特徴づけるような人間の働きと思想によって生み出されたものをすべて含めて、一つの総体としてとらえたもの」を意味する。他方、近代社会においては、「文化」は「知的ならびに芸術的な活動」に限定して考えるのが一般的である。
 美術も美術評論も後者の近代的「文化」観の枠内に生まれたものだが、近代の再考、再再考のプロセスのなかで美術家も美術関係者も前者の文化への関心を強めているように見える。現代アーティストの多くの表現が、既存の美術の枠を逸脱するのもそのような流れのあらわれかもしれない。
 私自身も昨年企画した「潟の記憶展ーそこでは風土と生活と人がいつも握手していたー」(2019年8月6日〜10月6日 砂丘館)で絵、詩、写真、ネイチャーアクアリウムを展示し、鎧潟という半世紀以上前に干拓で姿を消した新潟の潟とそこに在った(いまはない)「文化」に関心をもつようになった。それは「低湿地文化」と仮に呼びたいもので、必ずしも特殊なものではなく、日本あるいは世界各地の低湿地で営まれていた、あるいはいる複合的ーー生活を農業など単一の分野に依存しない生活様式のひとつと考えられる。鎧潟の干拓前の風景や人々の姿を撮影したのが、潟の近くの巻町の職員だった石山与五栄門(1923―1997)である。新潟大学が発足させた「にいがた地域映像アーカイブ」に石山の写真を加えていただくため、残された約2万点のネガフィルムを大学が預かり、デジタル画像化する作業を仲介、協力することになった。町の職員として撮影したものも含まれるので、その点にも配慮するべきだとある博物館職員から忠言をいただいた。難しい問題だが、石山の写真には町の職員としての義務や使命を越えた個人的関心が強く認められ、そこに私は惹かれている。そうでなければ美術評論家である私が関わる動機はなかった、ということは忘れないようにしたい。美術(言い方を変えれば個の表現)という視点は確かに部分的で、偏った視点ではあるが、それなりにやはり意味があるはずだ。そのことを石山の写真と関わりながら考えてみたい。

 

『美術評論家連盟会報』21号