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2020年11月14日 公開

ゼロ年代批評とサブカルチャー
2000年代 サブカルチャーとの共振関係                    

五十嵐太郎

 

 ゼロ年代はサブカルチャーの影響が全域化した時代だった。
 むろん、それまでにも1988年に開館した川崎市市民ミュージアムが積極的にマンガの企画展を行い、「手塚治虫展」(東京国立近代美術館ほか、1990-91年)などの事例はあったが、こうした展覧会がもはやめずらしいものではなくなった。すぐに「『新世紀エヴァンゲリオン』」をとりあげた「マンガの時代」(東京都現代美術館、1998年)、アーティストがマンガやアニメをモチーフとする「THE ドラえもん」展(サントリーミュージアム[天保山]、2002年ほか)や「THE GUNDAM」展(キュレーター=東谷隆司、サントリーミュージアム[天保山]、2005年ほか)が大ヒットし、石原慎太郎都知事の要請を受けて、氏家齊一郎が館長に就任した後、東京都現代美術館は集客を意識したジブリ関連の企画展を継続的に開催するようになった。個人的には、片山東熊が設計した明治時代の様式建築である京都国立博物館において、「アート オブ スター・ウォーズ」展が2003年に行われたとき、建物の外観と中身のギャップに驚いたのをよく覚えている。
 しかし、当初は違和感があったものの、いまや美術館でサブカルチャーの企画展が開催されることは当たり前になった。なるほど、戦後日本で発達したマンガやアニメも視覚的な表現であるわけで、現代のアートのひとつとして見なされるようになったのだろう(キュレーションが効いているものや、持ち込みのような企画など、クオリティは様々だが)。そしてサブカルチャーの洗礼を浴びて育ち、その影響が作品に反映しているアーティストも少なくない。ちなみに、『美術手帖』2006年2月号の特集は、「マンガは芸術か?」だった。これに寄稿した松井みどりは、マンガとアートを隔ているものは発表の媒体をめぐる制度的な取り決めだと指摘し、「日本の物語マンガの根底に流れる、世界と個人の間の関係性を枠組みにとらわれず確かめていくための、「未成年」的な脱境界化の衝動は、80年代以降のポストモダンと言われる現代美術表現によって共有されている」という。とすれば、彼女が企画した「夏への扉ーマイクロポップの時代」(水戸芸術館、2007年)も、サブカルチャーの動向と共振している。
 美術外部の批評家との関わりで言えば、村上隆の「SUPER FLAT」展(パルコギャラリー、2000年/ロサンゼルス現代美術館、2001年)は特筆すべきである。ジャック・デリダ論と同時に『新世紀エヴァンゲリオン』の批評によってデビューした東浩紀が、ラカンによるホルバインの絵画《大使たち》の分析を援用しながら、村上のDOB君シリーズを読み解き、スーパーフラットというキーワードを、象徴界(=透視図法)なき日本的なポストモダンの状況を示すものだと指摘したからだ。これを受けて、筆者も、当時の建築界における動向を説明する概念として、この言葉を活用した(『終わりの建築/始まりの建築』INAX出版、2001年)。また建築の分野からは、磯崎新の推挙によって、森川嘉一朗がヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展2004の日本館コミッショナーをつとめ、「おたく」展を企画し、日本のサブカルチャーを海外に発信している。筆者の見立てでは、これは1960年代以降、未来の廃墟、ラディカリズムへの関心、阪神・淡路大震災の瓦礫を持ち込んだ日本館の展示(1996年)など、一貫して磯崎が追求した「建築の解体」というテーマが、下の世代によって反復されたものだ。村上の「リトルボーイ 」展(ジャパンソサエティ、2005年)も、原爆を起点としつつ、戦後日本のサブカルチャーと現代アートを絡めた企画である。そしていち早く『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用美術』(洋泉社、1991年)から音楽を美術批評に組み込んだ椹木野衣も、原爆や廃墟のテーマを繰り返している。
 さて、ゼロ年代の人文系の批評でも、サブカルチャーを題材とすることが日常的な風景となった。かつて鶴見俊輔は、純粋芸術に対し、サブカルチャーとしての大衆芸術を区別し、非専門家がつくる限界芸術を提唱したが、相互の壁は崩れていない。1980年代のニューアカデミズムは、軽やかにジャンルを横断していたが、浅田彰に代表されるように、やはりハイ・アートが中心だった。浅田らが主宰し、1990年代を牽引した批評誌『批評空間』(福武書店、1991-1994年/太田出版、1994-2002年)も、サブカルチャーは題材とはしていない。また建築・都市の批評誌『10+1』(INAX出版、1994-2008年/ウェブ版は2020年まで)は、ディコンストラクティビズムやAny会議シリーズにおける建築と哲学の対話とは違い、社会学、カルチュラル・スタディーズ、表象文化論などの切り口が特徴的であり、田中純、毛利嘉孝、上野俊哉、小田マサノリらが寄稿している。とりわけ注目すべきは、東浩紀とその周辺だろう。彼はサブカルチャーを中心とする批評家の大塚英志と『新現実』(角川書店、2002-2005年/太田出版、2007年-)、社会学者の北田暁大と『思想地図』(NHK出版、2008-10年/株式会社ゲンロン、2010年-)、『ゲンロン』(株式会社ゲンロン、2015年-)などの雑誌を編集するほか、批評家養成のゼロアカ道場を企画し、ついには大学を辞めて、出版の会社を立ち上げつつ、カフェで討議を行う言説活動のプラットフォームを構築しているからだ。恵まれた出版の環境が空気のように存在し、文章だけを書けば良かった時代が終わり、批評家が自ら場をつくるようになった象徴的な事例だろう。
 東の言説空間から登場した濱野智史(『アーキテクチャの生態系』NTT出版、2008年)、福嶋亮大(『神話が考える』青土社、2010年)、カオス*ラウンジのメンバーだった美術批評家の黒瀬陽平(『情報社会の情念』NHKブックス、2013年)、あるいは東批判の決断主義によって注目された宇野常寛(『ゼロ年代の想像力』早川書房、2008年)など、ゼロ年代に登場した批評の論客は、以下のような傾向が認められる。くったくなくサブカルチャーを批評の題材としていること(以前の研究者にとっては、やや後ろめたい余技だったように思う)、ネットやコンピュータをモデルにした思考、そして環境決定論というべき工学的な世界観である。サブカルチャーは、音楽や映画よりも、マンガやアニメなどのオタク文化がほとんどだ。もちろん、オタクと研究者は親和性が高いからだろう。それゆえ、筆者は、これだけオタク文化論が溢れかえっているのに、逆にヤンキー文化に対する議論がまったくないことを踏まえ、アートやデザイン、そして都築響一の活動を含む『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社、2009年)を企画したことがある。その後、オタクやヘンリー・ダーガーを分析した『戦闘美少女の精神分析』(太田出版、2000年)で知られる斎藤環も、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、2012年)を刊行したり、アウトサイダー・キュレーターの櫛野展正が「ヤンキー人類学」展(鞆の津ミュージアム、2014年)を開催したが、まだこの分野に対する掘り下げは足りないように思われる。
 最後に気になった点を挙げておく。サブカルチャーを題材とする批評家が、かなり短い時間のスパンで世界の変化を断言していること。過去にも文学で世界を語るという批評はあったが、もっと大きな歴史と接続していた。むろん、それが文学からマンガやアニメに変わってもいいのだが、戦後の歴史や数年単位の変化だけでなく、絵画や映画など、長いスパンにおける視覚表現の中で位置づける作業も必要ではないだろうか。