パロディ裁判と美術評論家連盟  成相肇

2019年11月23日 公開

 1970年1月、グラフィック・デザイナーのマッド・アマノはフォト・モンタージュ作品集『SOS』を自費出版した。この一部といくつかのアマノ作品(*1)を、同年6月4日号の『週刊現代』が特集。その中には、シュプールを描くスキーヤーと雪山をとらえた写真に、広告から切り抜いたタイヤを貼り付けた作品が含まれていた。モンタージュの素材となった雪山写真は、もともと写真家の白川義員が66年に撮影して翌年の写真集で発表していたもので、フォトエージェンシーを通じて複数のカレンダーに無記名で掲載されていた。アマノはその内のひとつを利用してモンタージュを制作したのである。制作に際してアマノはカレンダーの発行者にも白川にも承諾を取っておらず、発表作に写真の出所も表記しなかった。

 白川の抗議を受けて『週刊現代』発行者の講談社が示談金の支払いに応じ、白川とアマノが双方弁護士を立てて折衝にあたるも解決に至らず、71年9月に白川はアマノを相手取って訴訟を提起。以降87年まで足掛け16年、6回にわたる審理がなされ、実質的に白川側の勝訴となる和解が成立して幕を閉じた。

 以上が、「パロディ裁判」として一般に流布した裁判事案(問題の所在の捉え方によって「写真著作権裁判」、「合成写真裁判」「パロディ・モンタージュ裁判」など様々な呼称がある)のあらましである。審理自体の長さもさることながら、この事件は社会的に耳目を引いてきわめて多くの文化論を巻き起こした。とくに法律学の分野では現在に至るまで参照や論及が重ねられており、日本の著作権にまつわる判例において特別な位置にある事件といえる。中でも、80年の最高裁(第一次)判決が示した引用の二要件説――著作権保護の例外として認められている(=著作物を無断で利用できる)「引用」は、引用側と被引用側の著作物が明瞭に区別でき、かつ、引用側が主で被引用側が従の関係にある場合に成立する――は今日でも有力な引用基準の解釈としてたびたび参照されている(なお、審理中に和解成立した87年の東京高裁を除くすべての判決はウェブサイトで見ることができ(*2)、東京ステーションギャラリー『パロディ、二重の声』展図録[2017]に全文再録されている)。

 膨大な議論を喚起した事件であり問題の射程は広いが、本稿では美術評論家連盟と本事件との関わりに的を絞ってまとめることにする。後述の通り連盟は裁判所に対して声明を提出しており、おそらく、係争中の裁判に連盟が組織としてコミットした事例はこれが唯一であろう(*3)。

 連盟事務局には、パロディ裁判に関する資料をまとめた一冊のファイルが残されていた。その内容を下記に列挙しておく。資料の発行年を見ればわかる通り、冊子一部を除くすべてが1976年5月19日以降から翌年にかけてのものであることは、すなわち同日に出た東京高裁(第一次)判決およびそれを受けた白川による上告に対して連盟が反応したことを示す。関連資料が他に保管されておらず、またかつてこの裁判の一部始終を調査したことのある筆者の知る限り、連盟は他の裁判過程に関わってはいないようだ。このタイミングでコメントを出した経緯、そして、最初の地裁判決(72年11月20日)や、上告審の最高裁判決(80年3月28日)に対する連盟の反応が見当たらないことの委細は不明である。

 ここで簡単に判決内容を振り返っておこう。地裁は、アマノの行為が盗作であり著作権および著作者人格権の侵害に当たるとする原告白川側の主張を全面的に認容した。対して高裁(76年)は、アマノ作品は法(旧著作権法)に認められた正当な「節録引用」にあたるというアマノの控訴を認めて逆転判決を下す。これを最高裁(80年)はさらに逆転して白川側の主張を認容、ここで訴訟の勝敗がほぼ確定することとなる。

 6回の審理中、高裁(76年)のみがアマノの主張を認め、他はすべてアマノによる著作権の侵害を認める判決を下したわけだが、最高裁判長に宛てて提出された美術評論家連盟の声明は、この唯一アマノ側に軍配を上げた高裁判決を支持した。下記に声明の全文を引いておく。資料にある通り、連盟は発信に先立って会員を招集して声明を検討するための「拡大常任委員会」を開き、声明発信とともに記者会見も開いて念入りな公表を行っている。

 高裁判決の要旨を大まかにまとめると次のようになる。

・アマノ作品はパロディといえる著作物であって剽窃ではない。
・アマノによる白川写真の利用法は独自の著作目的に適合する形での「節録引用」にあたり、客観的に正当な範囲の「自由利用」(フェア・ユース)として許される。
・表現の自由を尊重するならば、写真の一部が改変されても白川において受忍すべき。
・カレンダーに表記されていない著作者を調査してまで表示する必要はない。

 結論が他と異なるという以上に、美術史上の事例を挙げ、さらにフェア・ユース(自由利用、公正利用)の語――アメリカの著作権法において表現の自由と著作権との拮抗を調停するために設けられているが日本の著作権法上には明記がない――を持ち出した高裁の判決文は、全審理の中でも特異な印象がある。重要な特徴は、パロディ作品としてアマノにおける新著作物の成立を明言したこと、そして、あくまで著作権法の範囲内で判断(要するに、正当な「引用」か否か)を行った他の判決に対して、本判決のみが憲法上の表現の自由に言及し、本事件を表現の自由と著作権との相克という構図に位置づけている(その上で表現の自由の優位を認定した)点である。

 連盟の声明はとくに、アマノのモンタージュが独自の著作物であること、そしてそれが「自由利用」として妥当であることにおいて、判決を支持する内容となっている。

 結果として最高裁が高裁判決を取り消し、連盟の声明が受け入れられることはなかったわけだが、筆者自身は高裁の判決も連盟の声明も正当であると考えている。法文にない用語にあえて踏み込むなど特異な判決であるがゆえに法律学研究では評価が大きく分かれ、「非法律的な領域に深入りしすぎるものとして異端」(*4)とみなす論調も首肯できるものの、基本的に引用部分が多いか少ないかという量的な問題の範疇を出なかった一連の審理の中で、表現の自由を正面から扱った点においてこの判決を評価したい。そして、例えば法学者の半田正夫は、著作物を構成する「形式」と「内容」の前者をさらに「外面的形式」(客観的構成要素)と「内面的形式」(著作者の思想体系)に分けた上で、「外面的形式」が改変されても「内面的形式」が変わらない限り同一著作物とみなすという通説を挙げ、ならば白川写真の「外面的形式」がほぼ一致しながらも「内面的形式」が異なるアマノ写真は独立した著作物と解することができるとして判決を正当としているが(*5)――つまり、見た目はほとんど同じであっても別々の独立した作品であり各々の著作権が保持される――、筆者はこの意見に賛同する。そのような理路がなければ、他者の作品を表現に取り込むタイプの批評的な形式そのものがきわめて困難になるからだ。

 アマノのモンタージュは元の写真にわずかに手を加えることで大幅に意味作用を変化させるところに要点があるのだが、著作権法はこのような著作物の利用方法をそもそも想定していない。それゆえほとんどの審理は引用部分の量的多寡の問題に終始せざるを得なかったのだ。どのような意味的な差があれども、著作権法的には内容を問わず他者の著作物の大部分を利用したモンタージュは引用を超える盗作ないし改作とみなさざるを得ない以上、アマノの敗訴は端から既定路線であったといっていい。他者の著作物を原典として取り込んだ上でなされるパロディや再解釈のような批評的表現を行うのにわざわざ原典の著作権者当人に許諾を得るという、それこそ連盟声明にあるように「滑稽」なことは実際には考えがたい。そして最高裁が判決に付け加えた「原写真の表現形式を模した写真を自分で撮影して素材にするなどすれば、侵害を回避することもできるだろう」という補足も現実的には無理があるだろう(そもそもこのコメントはこうした表現方法に対して的を射ているとは思われない)。したがって判例の上では、対象がパブリックドメインになっている著作物でもない限りパロディは違法だといっているに等しいが、これはすなわち、パロディは著作権で扱うことのできる範囲を逸脱している、法に反するというより埒外である、ということだ。「パロディ裁判」の通称に反して、本事案ではパロディという表現が裁かれたのではなく、ほぼ引用の成否のみをめぐって行われた裁判であり、福井健策が述べる通り、パロディ的表現は著作権法にとって「未解決問題」(*6)なのである。

 本件は芸術家どうしの係争であるため、大義名分的な芸術擁護に留まらない判断を強いられ、美術評論家連盟にとって悩ましい事態でもあったろう。各種の芸術関連団体がそれぞれの立場をとって対立する事態にも発展したが、連盟の声明が白川の作品やその権利を否定するものではないことは強調しておくべきだろう。資料を見ると会員への声明発信通知の中に、白川の著作権を認めるべきだという意見が会員から寄せられていたという記述があり、それを反映して声明には「著作権は絶対に守られるべき」という強めの文言が入れられているものと思しい。この声明は個別作品の評価や否定に及ぼうとするものではなく、あくまで自由利用の余地を求めることで、コラージュやモンタージュといった美術史上ごく一般的に実践されている既に確立された方法を擁護し、その自由度が狭められないように訴えるものだ。それと同時に、末文の通り、現行の著作権法は複製メディアが市民化した社会に対応できておらず「時代遅れで極めて不備」だと批判するところに力点が置かれている。

 最高裁の判決に影響をもたらすことはできなかったものの、現実に即した著作権法改正の要望を盛り込んだ連盟の声明の有効性はなおも失われていないということができるだろう。筆者もまた引用の例外として自由利用の規定が著作権法に盛り込まれることが望ましいと考える。仮にアマノのモンタージュを含むような表現が自由利用として認められたところで「盗作し放題」のような無秩序には結びつくまい。それこそアメリカなど海外の著作権法のフェア・ユース規定にあるように、著作物使用の目的、それによって生じる機能や意味作用などに照らせば、単なる模倣や盗作とパロディは区別し得る。

 声明から40年以上が経過した今日において、その文面が危惧していたような自粛傾向は、じっさいに強まっているといわざるを得ない。かつてとは比較にならないほど複製が容易になったメディア環境にあって、「トレス」「パクリ」といった符牒とともに市民レベルで相互監視が猖獗を極めているのが現状である。複製の容易さがゆえに身近で抵触し得る著作権はいわばきわめて「フラジャイルな権利」と化しており、過剰なほど近寄りがたい力を帯びている。しかしもともと著作権の理念的背景にある文化振興は、排他的な占有ではなく共有によってこそ促進されるものであることをあらためて確認せねばならない。

 


1. アマノのフォト・モンタージュを「作品」つまり著作物と呼ぶかどうか自体が裁判の争点と絡むため慎重に書かねばならないが、本稿ではひとまず措く。筆者は「作品」と呼んで問題ないと考える立場である。
2. http://www.courts.go.jp/ (2019年11年8日閲覧) 事件番号はそれぞれ、東京地裁判決:昭和 46年 (ワ) 8643号、第一次東京高裁判決:昭和47年(ネ)2816号、第一次最高裁判決:昭和51年(オ)923号、第二次東京高裁判決:昭和55年(ネ)911号、第二次最高裁判決:昭和58年(オ)516号。
3. 連盟有志では2014年のろくでなし子逮捕および起訴に対して説明と起訴撤回要求を行い、さらに2015年の同事件東京地裁判決に対して抗議声明を出している。なお会員個人が裁判で証人になった事例や会員個々が関わった意見書の例は拾い切れず、ここでは触れない。
4. 岡邦俊「パロディ写真の文化史的背景」『小野昌延先生記念論文集 知的財産法の系譜』(青林書院、2002年)、562頁。
5. 半田正夫「著作権をめぐる最近の判例について」『ジュリスト』618号(1976年8月1日)、112-114頁。
6. 福井健策『著作権とは何か』(集英社新書、2005年)、140頁。

参考資料
1. 美術評論家連盟が保管するパロディ裁判関連保管資料
・「写真の著作権で新判断」『読売新聞』1976年5月19日夕刊
・「“合成写真”は独立の著作物」『毎日新聞』1976年5月19日夕刊
・「パロディーにも「市民権」」『朝日新聞』1976年5月19日夕刊
・社団法人日本美術家連盟による高裁判決を批判する趣旨の声明文(1976年6月26日付)
・「合成写真裁判で最高裁に「著作権守れ」の訴え」『読売新聞』1976年10月5日
・「著作権秩序こわす“パロディー”判決」『朝日新聞』1976年10月5日
・新日本文学会、広告批評懇談会、美術の解放をめざす市民会議、アーチスト・ユニオン、無所属美術家会議、画家組合、の連名による、高裁判決支持および日本著作者団体協議会の高裁判決反対声明への反対を表明する声明文(1976年11月付)
・美術評論家連盟の声明文(1976年12月6日付)
・「盗作でなくパロディー」『産経新聞』1976年12月18日夕刊
・「マッド・アマノの写真裁判 美術評論家連盟が高裁支持」『読売新聞』1976年12月24日
・「盗作?戯作?芸術界真っ二つ」『東京新聞』1977年1月17日
・岡田隆彦「時代遅れ 著作権法の『引用』」『朝日新聞』1977年2月10日
・柳本尚規「JPSの裁判対策」『美術手帖』(1977年3月)
・「自制と自由と議論百出 モンタージュ写真事件シンポジウム」『毎日新聞』1977年2月21日夕刊
・「大量複製時代の著作権とは……白川・アマノ裁判めぐって公開討論」『読売新聞』1977年2月18日夕刊
・美術評論家連盟事務局より会員宛の声明発信通知(1976年12月9日付)
・美術評論家連盟会長(岡本謙次郎)名義の記者会見開催通知(1976年12月9日付)
・美術評論家連盟常任委員長(三木多聞)名義の声明検討のための拡大常任委員会開催通知(1976年11月11日付)
・声明文草稿(原稿、推敲版など複数あり)
・『美術著作権その他契約ひな型』(日本美術家連盟、1981年8月20日)
・「山藤章二とゴーゴリに見る「笑い」の武器」『朝日ジャーナル』(1977年3月4日)
・各種芸術関連団体、雑誌編集部、新聞社等連絡先一覧(各項に印あり、声明発送確認用か)
*ファイリング順に記載、重複するものは省略した。

2. 美術評論家連盟の声明文(1976年12月6日付)
声明
最高裁判所
第三小法廷
裁判長 環 昌一 殿
昭和五十一年五月十九日、東京高裁が、マッド・アマノと白川義員の両氏の間で争われていた「モンタージュ写真」問題に関して下した判決について、美術評論家連盟は、慎重に検討した結果、この判決を支持することを、ここに声明する。
 その理由は、次のとおりである。
 (1)マッド・アマノの作品は、現代美術で広く用いられているフォト・モンタージュの技法によって正当に創作された独自の著作物であり、複製でも、盗作でもない。
 (2)この作品は、カレンダーに使用された白川義員の無署名の写真の思想を批判し、それに異物を加えるのは最低限にとどめ、大部分、その情景を転用することで正反対の効果を生んだ皮肉な諷刺作品であり、パロディであると認められる。
 (3)パロディの制作に当って、対象となる作品の作者に、許諾を得る必要がなく、作者名を表示する必要もなく、また、そうした滑稽な事例がないことも、東西美術の歴史に照らして明白であり、ここでの転用が、適法な「自由利用」(フェア・ユーズ)であるとする判決は、芸術上の習慣・原則からも、妥当である。
 (4)著作権は絶対に尊重されるべきであり、また、パロディに利用された作品の作者が反批判するのは自由であるが、芸術上において「自由利用」の領域を残すことは、必要であり、かりに対立が生じるばあいにも、あくまで、思想上もしくは芸術論上の問題であって、著作財産権および人格権の侵害であるとして、パロディ作者を法的に訴えるのは、錯誤である。
 (5)芸術家自身が、著作権の尊重を理由に、全然性質の異なる問題に、権利を拡大・誤用し、自由で多様であるべき芸術表現を狭め、結果として、みずからの表現領域を法廷に制約させることになる事態を危惧する。

 なお、著作権法の該当項目(旧法第三〇条第一項第二)「自己ノ著作物中ニ正当ノ範囲内ニ於テ節録引用スルコト」、および新法第三十二条は、現代芸術において盛んにおこなわれている種々の合成・転用技法に対するものとしては、時代おくれで極めて不備であり、これを機会に、最近の動向に照らして明確に改正されることを要望する。
昭和五十一年十二月六日
美術評論家連盟
会長 岡本謙次郎

 

資料
「[パロディ裁判に関する]声明」(1976年12月6日付)

 

『美術評論家連盟会報』20号