会長退任を前に、この一年を振り返る  南條史生

2019年11月23日 公開

 私は、今回、この号に1998年の国際美術評論家連盟(以下AICA)大会の日本誘致に関する顛末を書いてもらいたいと依頼されて、その時の事情を再度振り返ってみる機会を得た。
 さて、私が初めてAICA国際大会に参加したのは、1975年のポーランド大会の時だったらしい。当時日本の美術評論家連盟の会合には、頻繁に参加していた。手元の資料を見ると、その頃のAICA日本のメンバーには公立美術館の館長や学芸部長が多い。その当時の美術館員はできれば美術評論家でいたいが、喰っていけないから美術館で働くのだという意識を持っていたように思う。つまり、学芸員より美術評論家であることを望んでいたのではないか。さらに言えば、美術評論家ではなく、文学者であれたら、という思いを持っていた人も少なからずいたように思う。もっともこれは私の憶測であり、確認して人数を数えたわけではない。
 AICAの国際大会を誘致した当時の日本の関係者には、フリーの美術評論家はほとんど見えない。錚々たる美術館人の顔ぶれである。またフリーのように見える人もだいたい大学で教えていた。一度、針生一郎氏が、中国から帰国して、「中国ではフリーの美術評論家はほとんどいない。皆大学の先生なんですよ」と秘密を発見したように語った時には、自分だってそうじゃないですか、という声が上がった。
 当時の国際大会で美術評論家のステータスが議論になった時に、アメリカのグループが、「美術評論家は中立性を保つためにギャラリーや作家から報酬を受け取って仕事をしてはならない」という倫理規定を新たに提案したことがある。その時に当時のAICA会長だったフランス人のジャック・レナールが、「それはできません。なぜならまだ発展途上のアジアやアフリカの国の美術評論家は、それを言われたら喰っていけなくなるからです」と言って却下したのを覚えている。ついでに言えば、その後アメリカ勢はジェフリー・ダイチ(ギャラリスト)を新しいメンバーに推薦してきたので、本当になんていい加減な人たちなのかと驚いた。
 ところで、この問題は、今でも美術評論家の立場を考えるときに大変重要である。個人の意見とその所属する組織の利害が対立する場合、どのように身を処するべきなのか。2017年発行の会報(ウェブ版第7号)の巻頭の「最後に一言」で峯村敏明氏が提起した問題とも、この問題はつながっている。
 モラルや原則は皆の頭の中にあるが、理念を掲げて現実を見ていない人も多い。原則を論じることは重要だが、血が通っている必要もある。様々なジレンマがある。どのように自分に誠実であるか、それが最後は問題になるだろう。
 私は1980年代、CIMAM(国際美術館会議。その時点では国際博物館会議(ICOM)の分科会であった)という近現代美術館のキュレーターの会議にも顔を出すようになって、徐々にそちらにシフトしていった。それは日本では、まだ現代美術の重要な作品など全く見られない状況の中で、評論よりも先に展覧会を形にすること、実物の作品を見せることの方が優先課題だと感じ始めたからだ。そこで、AICAからCIMAMへと参加の比重が移っていった。
 そうした思いの延長で、私は1986年にICA名古屋を立ち上げて、ヤニス・クネリス、マリオ・メルツ、ジュリオ・パオリーニといったアルテ・ポーヴェラの作家の個展を続けて開催した。またダニエル・ビュレン、エド・ルシェ、河原温の個展、さらに「アゲインスト・ネイチャー」の帰国展等を開催した。
 そして1994年にCIMAMの国際大会を日本に誘致することになった。それは日本も国際的な文脈と接続し、その中で現代美術を論じる土壌を作るべきだと思ったからである。しかし、最近(2018年)再びCIMAMの国際大会が日本で開催されたときには、事務局には第一回目のことを覚えていて発言する人も、当時のことを調べようとする人もほとんどいなかった。もう国内の人々の記憶にはないのである。それは歴史に対する無関心であり、また物事を科学的に認識しようとする意思の欠如のように思える。
 さて、少なくとも今回本誌でAICAの国際大会誘致を振り返ることができたのは、大変幸運だった。少なくとももう一度、今の世代にどのような経緯があったのかを伝えることができるし、当時の課題は現代につながっていると思えるからだ。顛末の文(本号掲載の「1998年の国際美術評論家連盟日本大会実施 事の経緯」)の最後で、批評の言語自体の定義の見直しについて問題提起を行った、亡き南嶌宏君のエピソードを紹介した。
 ところで直近の事柄で言えば、本年2019年の大きな話題となったあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」閉鎖に関わる議論が私の任期中一番大きな出来事だったかもしれない。この事例に対して美術評論家連盟は批判の声明を発表した。これは表現の自由と検閲という概念にまつわる議論につながっている。
 私個人は検閲とは権力者(国家、企業など)がその権力者を批判する意見を封殺しようとして行う表現の排除・圧殺だと思っている。しかし検閲の多様なケースを見ると、そう単純ではない。そこでは誰が、いつ、どのような目的で、誰の表現を封じるのか、ということの精査と分析も必要であろう。そこに、自ずと事の軽重も表れる。こうしたことも、もっと議論ができればよかったと思う。
 私は1998年のAICA国際大会の報告書の最後に、これだけの異なった国の人々が集まって美術批評を論じるときには、当たり前の言葉、当たり前の概念が相互に同じ意味で使われているのかどうかを、最初から吟味し、定義し直さなくてはならないと書き記している。
  我々は今大きな変化の前にいる。テクノロジーの進歩によって、現実の認識が変わるだろう。それと並行して働き方、交通・情報網、エネルギー供給、社会システム、経済、政治などのありかたすべてが変わるだろう。
 AIが発達し、バイオテクノロジーが身体を変化させるようになると、これまでの論理では物事が図れなくなるだろう。人は巨大なAIネットワークに接続されて、これまで信じてきた個人の自由、アイデンティティ、民主主義、個人主義という概念も、有効性を失うかもしれない。美術にしてもゴッホまがいの絵画はAIがいくらでも作れるようになる。であれば人は美術をどのようなものと規定していくべきなのか。ポストヒューマンの時代に、あくまでも人間のための、人間のテリトリーとしてアートを守り続けることができるのかどうか、と思う。
 そこで美術批評も明日に向かって新しい言語を生み出す必要があるのではないだろうか。時代と向き合って、時代を語ることができる美術批評とは何なのか、それは個人や社会とどう関わっていくのか。新しいタイプのメディアアート表現、イマーシブな空間作品のもたらす身体体験、再び盛んになりつつあるパフォーマンス系表現の美学などについての新しい批評を試みる若い世代の評論家を見いだし、顕彰する必要もあるのではないか。またシンポジウムなどにそれを反映させられないだろうか、と思う。
 しかし、残念ながら本年の12月末日に森美術館の館長職を退任するにあたって、私の生活も大きく変わるので、美術評論家連盟の会長職も退くこととなった。私の任期中に国際大会は誘致できず、また批評の議論を深めることもままならないまま退任することは、会員の皆様には申し訳ない。次には新しい会長が新しい時代を作るのが正しい歩みであると確信し、私の挨拶を終えることと致します。

 

『美術評論家連盟会報』20号