栗憲庭のこと  牧陽一

2019年11月23日 公開

 やはり中国の美術評論家といえば老栗(ラオリィ)を挙げないわけにはいかない。筆者も1990年代に雨が降ると浸水する后海南岸の北官房胡同28号のかつて栗が30年も住んでいた家に行ったことがあるし、その後の通県宋荘小堡村にも訪ねたことがある。2000年代にも北京の美術展で会うこともあったが、これといってまとまった話をした記憶はなく、冗談ばかり言っていたようだ。白いひげを蓄え色が黒く農民にしか見えない土臭い人間だ。美術関係者は気取った人が多い中で珍しい。本人は自分を「美術評論家」というよりは「編集者」だと言っている(*1)。これは謙遜なのか、或いは仕事内容として率直に述べているのか。逆に言って中国現代アートの歴史は栗が先導してきたと言っても過言ではない。この点から言って評論家を超えた存在といっていい。確かによく書く人ではない。高銘潞や呂澎のように美術史のようなものも書いてはいない。この業界で十分な資格があるにもかかわらず、書いてはいない(*2)。一方で書けないのかもしれない。それはあまりにも現代アートに関わり過ぎたということだ。客観的な判断はできない。客観的記述をするには、自分が支持してきたアーティストを中心に捉えるわけにはいかないからだ。そして常に反体制的なアーティストを擁護してきたのだから、尚のこと書けない。

 艾未未との関係は1979年星星美術展から始まるが(*3)艾は栗の星星評価に感謝する手紙を送っている。いつだったか、栗が私に星星の資料を提供してくれた中にその手紙があった。

 栗は1978年に中央美術学院中国画系を卒業すると雑誌『美術』79-83の編集者となり星星を高く評価した。さらに傷痕美術、郷土美術といった文革後の美術の潮流を形成させていく。言うまでもなく文革で荒廃した文化の立て直しを図ったものだ。さらに西単の民主の壁に誕生した民主化の方向性に一致している。だが反精神汚染キャンペーンで辞職に追い込まれた。以降体制的な媒体からは離れ独立して活動する。

 85美術運動では全国のアーティストを組織し「中国現代芸術展」1989を開催したが、64天安門事件で民主化、芸術表現の自由への動きは頓挫する。

 1993-5年代円明園芸術家村を擁護したが、当局の介入によって解散を余儀なくされ、後に宋荘に移り現在に至ることになる。後の北京東村、798、草場地など芸術村形成に繋がっていく。

 1993年香港の漢雅軒で張頌仁Johnson Changとともに「ポスト89-中国新芸術」展を開催し、政治波普ポリィティカル・ポップ、玩世現実主義シニカル・リアリズムを、張暁剛、王広義、方力鈞、岳敏君らをアートシーンに登場させ、世界の美術市場を席巻することになる。さらに艶俗芸術チャイナ・キッチュの美術展を企画していく。

 当然64の民主化の挫折と虚無感を表出したものだが、皮肉にもこの虚無こそが中国と世界との会話を始めさせることになる。1980年代の表現への模索が比較的安易な希望に裏付けられていたとすれば、90年代は64天安門事件という国家からの裏切りを味わったことで、表現への強固な確信を得たともいえる。またポップやキッチュといった共通言語によって主流の現代アートの文脈に近づき、両者を相互に開かせた。

 2000年には「十二花月」で女性器アーティスト陳羚羊を、「对伤害的迷恋」(傷害への耽溺)では、孫原+彭禹ら死体派を登場させる。これは同年艾未未らの「不合作方式FUCK OFF」展に継承された。おそらくこの時点が正にキュレーターとして、栗憲庭から艾未未や当時798の黄鋭へとリーダーの交代時期だったのかもしれない。

 2003年には最後の企画となった「念珠與筆触」展を開催し、ミニマリズムの作品を集めている。ミニマリズムが禅の修養として把握された時点で、異文化との融合が図られたかのようであり、一種の完結性を見出すものだった。栗の結論は欧米現代アートの摂取と東洋的な修練の末にある悟りのような境地に分裂していると自ら述べている。

 しかし、栗の活動は現代アートの範疇では収まらなかった。2006年には宋荘美術館が完成し、館長となる。また北京独立電影節が開催され、栗憲庭電影基金が創設された。助成金は祁志龍、方力鈞、王慶松ら著名になったアーティストらから提供されており、映画制作のための講座も開かれ、300人以上が受講している。フィルムアーカイブも1990年代以降が収集され、1500項目を超える。その後2012年の9回、2014年の11回が禁止されたが、2018年までに14回のドキュメンタリー映画祭が開催されている。

 こうした政府による圧力は、艾未未に対する弾圧時期に重なってくる。艾は2011年の4月22日、北京空港で行方不明になり、後に逮捕監禁されていたことが明らかになる。ちょうどその時に栗憲庭は台湾の『聯合報』に艾の記事を書き、その作品を高く評価している(*4)。当然ながら栗や艾、中国の現代アートはソーシャリーエンゲイジド・アート、社会の変革を目指す方向性に一致する。

 こうして見てくると第1回星星美術展の1979年から40年、栗憲庭はほとんどブレる事なく自由な表現を擁護してきた。そして中国文化と世界を結び付けてきたと言っていい。文革、大躍進の失敗と反右派闘争、64天安門事件という中国の負の歴史を正視したからこそ、主流現代アートの模倣や擬態の領域を超えて、さらに踏み込んだ中国現代アートの歴史をつくる先導となった。相変わらず政権からの弾圧はあるだろう。だが歴史の法廷で勝訴するのは間違いなく栗憲庭であることは筆者だけでなく多くの人が確信できるはずだ。

 

  1. 〈與栗憲庭談當代藝術與中國藝術批評―路東對話栗憲庭〉

https://kknews.cc/culture/8e4eke.html (2019年9月20日閲覧)

  1. 唯一、栗憲庭『重要的不是藝術(重要なのは芸術ではない)』(藝術家出版社、2012年)がある。
  2. 栗憲庭、章詒和〈艾未未是一個有創造性的藝術家〉

http://onmeditation-read.blogspot.com/2011/05/blog-post_8447.html (2019年9月20日閲覧)

  1. 同上

 

『美術評論家連盟会報』20号