日英現代美術シンポジウム断片  木島俊介

2019年11月23日 公開

 今年度の会報編集長・加治屋健司さんより、「連盟の過去の活動」について書くようにとの依頼があった。原稿締め切り時が渡欧の期間と重なりそうであったため、辞退したのだが、どうやら私が会員の中でも最年長の部類に入るようだとかで、責任感の一端に触れられたことと、締切り延期を重ねられて、承諾せざるをえなくなってしまった。今年私は80歳になるのであるが、いざこうしてパソコンに向かってみて、大変な事実に気付かされた。

 70歳で大学を辞めた時、戦前のボロ屋を建て替える気になって、古い書庫とも物置とも言えない状態にあった一室の中身を思い切って廃棄してしまったのである。この時は、文章を書くことも辞めてしまうつもりで、大量の本も処分した。今となってこれは、書物無用の文明を先取りした快挙であったと胸をなで下ろしている始末である。美術評論家連盟(以下、AICA)に関連した資料も完全に失ってしまったし、記憶も減少しつつあって「過去の活動」を文字化するのもおぼつかない有様なのである。

 そこで致し方なく記憶の断片を羅列させていただくことにした。加治屋さんによると私が連盟の会員になったのは、1974年のことのようだが、1970年の大阪万博覧会場内に「万国博美術館」を設立して、参加国から国宝級の美術作品を借り受けて展示するという主旨の元に、世界中を駆け巡り、国内外732点にも及ぶ作品を借り受けて展示したのみならず、全作品に800字の解説を加え、それを英・仏語に翻訳掲載という無謀なカタログ編纂を行った上、結局150ページ、その厚さ7センチに及ぶ大巻が完成した時には当の博覧会はトウの昔に終っていたという偉業・愚業を終えて、ようやくホッとして気楽になっていた頃のことであった。

 AICAの会員になってからは、塾同輩の岡田隆彦さんが事務局長、私が局次長を務めたという時期もあって、この頃はよく二人で酩酊したのは懐かしい思い出だが、岡田さんも早く亡くなってしまった。何時頃のことであったか、「日英現代美術展」(栃木県立美術館等)が開催された時、英国の彫刻家デイヴィッド・ナッシュが、日光山中の倒木を使って作品を作りたいと言う。彼は展覧会終了後、この作品を素材ゆかりの日光戦場ヶ原の湿地に置きたいとあれこれ言うので、なんとか許可を得て浅い水の中に設置したのであったが、後に大雨にあってどこかに流されてしまった。これを探し出すのに苦労したことも思い出される。戦場ヶ原ではこの時不思議な光景を目にした。あの沼地の水気もない泥の中に、極度に細く、超長い竿を差し伸べて何かを釣ろうとしている人たちが数人いる。こんなところに何がいるのですかと聞いたところ、ドジョウを釣っているのだという。ドジョウは郷土の盆歌「安来節」にのっても踊られるごとく、スクウものだと思っていたからこれには驚かされたが、彼らは北海道から九州までドジョウを釣って旅しているそうで、マニアの世界とはすごいものだと感じ入ったが、我が身をふりかえれば、彼らから見れば汚れた丸太にすぎないナッシュの作品をどこかで見なかったかと説明している自分も、おかしなヤツと思われただろう。なぜこれがAICAと関係あるかというと、この機に「日英現代美術国際シンポジウム」を主催したからで、パネラーとして英国現代美術の称揚に尽くしたテート・ギャラリーのキーパー、ロナルド・アリーを招いたが、彼も今やない。鳥好きの彼とは、テムズ河畔の彼の家の庭先でバード・ウォッチングを楽しんだこともある。

 このような私的なことしか思い出すこともないのだが、ひとつだけ記録されてよいことが思い浮かんだ。どのような経緯からAICAの机がひとつ東京国立近代美術館のなかに置かれることになったかということであるが、これも万国博美術館の設立と関係している。万国博美術館は財団法人万国博覧会協会の一機関であるから国家の機関ではないのであったが、世界各国から国宝級の美術作品を借り受けてと言った以上、単に保険をかけるというにとどまらず、その取り扱いに十全を期さねばならない。しかるに、設立準備室に最初に入ったワカゾウ、すなわち私は、大学院を出たばかりのなんの経験もない人物である。であるからして、各国立の博物館・美術館は助っ人として各館一人ずつそれなりの専門学芸員を万国博美術展準備室に出向させよ、という通達が、おそらく、文化庁の文化財監査官から発せられた。この方は私の三田の恩師・松下隆章先生(後の京都国立博物館館長)であった。そこで東京国立近代美術館は岩崎吉一さんを、若い学芸員として出向させたわけである。学芸員のなかでは一番若かったのであろう。岩崎さんは私とほとんど同年であったから、彼からは気安く教えを受けられたし、仲良くなった。これが縁で、AICAの机がひとつ近美の学芸課の脇に置かれることとなったのである。さて、しかるべき当局の許可がどのようにして得られたのか、岩崎さんも亡くなられてしまった今、知ることはできない。友人を亡くしてしまった話ばかりで、「連盟の過去の活動」とも言えないことを書いてしまった。老人の妄想ご寛容あれ。

 

『美術評論家連盟会報』20号