シェル美術賞・グッゲンハイム国際賞等の審査、国際美術協議会への参加

2019年11月23日 公開

     第二次世界大戦後、主権回復以降の1950年代は、文化芸術を通して戦時中に断絶された国際交流を回復しようとする動きが世界各地で見られた。世界最大の国際展のひとつ「ドクメンタ」が、ナチス政権崩壊後のドイツで国際関係の回復を願って1955年に創設されたことは広く知られている。ニューヨーク近代美術館でも同年に「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」展が開催され、68カ国から集められた写真約500点が、結婚、誕生、遊び、家族、死、戦争というテーマに分類されて、人類の平等や融和を提唱した。日本も例外ではなく、この時期官民の多様な活動を通して、断たれていた国際交流の復活が望まれた。『美術手帖』1955年1月号特集「摂取から交流へ」では、美術評論家の植村鷹千代が、戦後の国際交流が「かつてない規模と深さで進められ、日本の現代美術の様相を急激に変えてきた」と指摘している(*1)。その要因として、戦後の交通機関の発達のほか、戦争によって中断されていたフランス美術の摂取路線の強まりをあげ、「敗戦による軍国主義からの解放は、数年間におけるこの窒息的状態に対する反動を強力にはずませた。美術家たちの眼と心は、積極的に海外に、わけてもフランス画壇に向けられた」と書いている(*2)。1951年にはブラジルでサンパウロ・ビエンナーレが創設され、日本は初回から参加。翌52年にはヴェネチア・ビエンナーレに初参加するなど、これらが海外発信の大きな柱と捉えられ、1956年には石橋正二郎の寄付によってヴェネチア・ビエンナーレの主会場ジャルディーニに日本館も建てられた。国内では新聞社各社が積極的にサロン・ド・メやアンフォルメルといった最新の現代美術を欧州から紹介するなど、50年代半ばまでには「美術の世界交流は名実ともに強化された」(植村)。1954年、こうした環境のなかで美術評論家連盟も発足したわけだが、評論家が近現代美術に関する最新の動向を捉え、批評するだけでなく、国際的なアートシーンと日本国内を結ぶゲートキーパー的役割を果たしていった様子も様々な資料から窺い知ることができる。世界各地で行われるアワードやプライズの審査から、今日では美術館のキュレーターが主に担う展覧会企画や作家作品の選定まで、美術の方向付けや価値付けを担う評論家の役割はじつに多様で幅広かった。

 『美術手帖』1958年1月号の「特集:日本の美術批評を検討する」によれば、「新聞社が美術に関して積極的に活動するようになると同時に、批評家が単なる文筆活動以外に、政治的というか実行的発言に動員されるようになったことは戦後の批評界の大きな特質です」とあり(*3)、実際、1950年の「朝日選抜秀作美術展」の創設以来、作家作品選考は「戦前派10人の不動のメンバー」によって行われていた。また、1955年に神奈川県立近代美術館で開催された「今日の新人・1955年展」では、美術評論家連盟(*4)が後援に名を連ね、連盟内部の相互協議によって設けられた規約に基づいて参加作家が選定されている。選定にあたったのは江川和彦、土方定一、今泉篤男、河北倫明、久保貞治郎、村田良策、岡本謙次郎、瀬木慎一、滝口修造、大徳寺公英、植村鷹千代、山田智三郎で、水沢澄夫、富永惣一が手紙によって意見を述べたと記されている(*5)。また、1956年にシェル石油株式会社が創設した「シェル美術賞」でも、美術評論家連盟が受賞者の選定を委嘱され、「シェル美術賞展」が神奈川県立近代美術館で開催されている。当時、土方定一は美術評論家連盟の会長であり、同館の副館長でもあったことから、美術館活動と批評活動の近接も興味深い(*6)。

 海外へ向けた発信としては、1956年にニューヨークのグッゲンハイム美術館が創設した「グッゲンハイム国際賞」に美術評論家連盟が関わっている(*7)。初回にはオーストリア、ベルギー、ブラジル、カナダ、コロンビア、デンマーク、エジプト、フランス、ギリシャ、イタリア、日本、オランダ、ポーランド、スイス、英国、米国、ユーゴスラビア、欧州・アフリカ、北米・南米という国別・地域別セクションから作家が推薦されているが、日本は美術評論家連盟から土方定一、国際博物館会議(ICOM)日本委員会から野間静六、国際造形芸術連盟日本委員会(*8)から宮本三郎が選者となり、脇田和、海老原喜之助、福田平八郎、前田青邨が推薦された。その後、1958年開催に向けてこの三団体などが参加する国際美術協議会(National Liaison Committee)が設置され、嘉門安雄が会長の任を務めている。1958年の「第二回グッゲンハイム国際賞」では川端実が佳作、国別でも日本が佳作、1960年の「第三回グッゲンハイム国際賞」では阿部展也が国際審査員を務め、斎藤義重が佳作を受賞するなど、日本が一定の存在感を見せた背景にも推薦者や審査員としての評論家の貢献を見ることができる。先述の『美術手帖』1958年1月号には、さまざまな国内での審査や選考に加え、「批評家の意見が強く反映される、いわば半乗りの形のものに、27年[1952年]以降のヴェニス、28年[1953年]以降のサンパウロ、両国際展の作家選考」があり、「32年[1957年]には国際交流の国家的機関として国際美術協議会が設置されたが、美術家連盟と評論家連盟の協議で決定する原則に変更はない」とある(*9)。さらに「国際交流が活発になれば、授賞その他の運営が作家以外の第三者に移ることは必然ですが、とにかく戦前には考えられなかった批評家の実践的発言力の強化」が指摘されている(*10)。それから10年後の『美術手帖』1968年7月号「特集:世界への道・日本の現代美術」では、「戦後に設立された「日本美術家連盟」にしても「美術評論家連盟」にしても、各国の機関と緊密なインフォメーションを交換しながら、国内問題を処理すると同時に、こうした海外の国際展に対する日本代表としての役割を果たす性格を強めてきた。そして、戦前のように文部省、外務省など政府機関に一任する方式や、またケース・バイ・ケースでそれぞれの団体、個人が積極的に参加する仕組を変更し、美術家連盟と評論家連盟の代表が合議してゆく方法がとられ、やがて「国際美術協議会」の誕生ということになる。これは、このふたつの連盟代表のほかに、国際文化振興会、文部省、外務省の代表が事務、運営上の立場で加わり、日本代表という形で海外展への参加、実施を検討する機関になった」とある(*11)。そして、「新しいオピニオン・リーダーとしての評論家の立場が、当然、国際展への参加、つまり日本現代美術の進出の際に、次第に色濃く反映するようになってきた」ことを指摘している(*12)。

 ヴェネチア・ビエンナーレの作家選定については、国際美術協議会を事務局に1960年(第35回)参加からコミッショナー制が採用され、その後、サンパウロ・ビエンナーレ、パリ青年ビエンナーレなどにもコミッショナーとして評論家が明確な主張を打ち出すようになる。国際美術協議会は、1972年に発足した国際交流基金が特殊法人から独立行政法人になった2003年に解散した。海外のビエンナーレへ参加する日本人作家の選定については、国際交流基金の国際展事業委員会が設置され、連盟ではなく個人に委員を委嘱し、日本コミッショナー選定の任を担ってきたが、現在はヴェネチア・ビエンナーレ(美術、建築)のみが対象になっている。

 『美術手帖』1968年7月号に論考「戦後批評の展望」を寄せた岡田隆彦は、50年代には「批評はもはや海外美術思想の機械的な移入や作品解説でお茶をにごしているわけにゆかず、いよいよ時代を方向づける主体的な批評活動を要求されるようになった」と回想する(*13)。その後、針生一郎、東野芳明、中原佑介など新しい世代が若手批評家として登場し、周知のとおり一時代を築いていくわけだが、彼らもまた物故者となった今日、美術評論家が果たしてきた多様な役割は、現代美術を取り巻く環境の複雑化、グローバル化のなかでいかに変化してきたのだろうか。非欧米圏においてそれぞれのモダニズムが再検証され、中心と周縁、最先端と遅延という関係ではなく、地域や時代の政治的、社会的な文脈とも呼応させながら、それらを超えたトランスナショナルな美術の発展や交流に注目が集まる時代にこそ、「いよいよ時代を方向づける主体的な批評活動」は求められているのではなかろうか。そこでは、個々の作品が生産された複雑な文脈を紐解きながら、世界各地で営まれるグローバルな現代美術という共通言語に照らして、多様な価値観や表現に込められた真理が読み解かれる必要があるだろう。岡田隆彦は50年前に「批評をさしだす方法が変質しつつある一方で、じっさいの制作が混乱をきわめているような今日において、批評の実践ということが、むしろいままでにないくらいのきびしい試練を受けているように思われる。批評もまた、現実と観念との相互浸透のただなかから新しい表現の原理をみいださねばならない」と述べている(*14)。美術に関わるプロフェッションが細分化し、またソーシャルメディアを介して大衆の声も社会を動かしうる時代にこそ、文化を通した国際交流や多様な価値観の相互理解、あるいは平和の維持に向けて、さまざまな立場から働きを続ける必要があるだろう。そのなかで美術評論家連盟や美術評論家が果たしうる役割に引き続き大いに期待したい。

 

  1. 植村鷹千代「国際交流の時代」『美術手帖』(1955年1月)、96-98頁。
  2. 同上。
  3. 竹林賢「日本の美術批評を検討する」『美術手帖』(1958年1月)、118-119頁。
  4. 同展カタログでは「日本美術批評家連盟」と表記されている。
  5. 「今日の新人 1955年展」カタログ、神奈川県立近代美術館、1955年12月3日〜1956年1月15日、後援:日本美術批評家連盟[ママ]、読売新聞社。
  6. シェル美術賞では、1981年に休止するまで美術評論家による審査が継続された。公募展の審査を美術評論家が担うモデルは、毎日新聞社主催の「日本現代美術展」(1954年に「日本国際美術展」と隔年開催されるかたちで創設され、「日本国際美術展」が第18回で終了して以降毎年開催。招待制から公募部門の併設、招待部門の廃止と復活などを経て2000年に終了。第5回以降は美術評論家が選考委員を務めた)、安井賞(1957年から1996年まで。美術評論家が選考委員、審査員として関わった)、VOCA展(1994年創設。推薦委員や実行委員会に美術評論家、キュレーター等が関わる)など数多く見られる。
  7. 当初は各年開催。1963年以降は国別セクションを廃止し、グッゲンハイム美術館のキュレーターが参加者を選定する方式に変更。
  8. 国際造形芸術連盟日本委員会は、日本美術家連盟内に置かれており、実質的には日本美術家連盟から選出されている。
  9. 竹林賢「日本の美術批評を検討する」『美術手帖』(1958年1月)、119頁。
  10. 同上、120頁。
  11. 小川正隆「国際的動向への参加」『美術手帖』(1968年7月)、77頁。
  12. 同上、p.82頁。
  13. 岡田隆彦「戦後批評の展望 危機意識の回復のために」『美術手帖』(1968年7月)、94頁。
  14. 同上。

 

『美術評論家連盟会報』20号