中国の美術評論家との交流  加治屋健司

2019年11月23日 公開

 美術評論家連盟と中国の美術評論家との交流は、1988年に遡る。1988年2月に美術評論家連盟と日本中国文化交流協会(以下、日中文化交流協会)が日中美術評論家の相互交流を呼びかけたのがきっかけである。このときの美術評論家連盟会長は、前年に同職に就いた河北倫明で、日中文化交流協会常任理事も務めていた。河北は、美術家代表団の訪中に参加したことがあり、1979年の「現代日本絵画展」代表団と1985年の日本美術家代表団では団長を務めていた。河北は、美術評論家連盟会長として、美術家ではなく美術評論家の交流を目指したように思われる。当時美術評論家連盟常任委員長の桑原住雄は、訪中の目的を「中国の美術理論研究者(美術評論家、美術史家、美術ジャーナリスト)との交流回路を切り拓くこと」とし、その背景として欧米美術偏重の態度を「反省的に修正しようという発想が美術評論家連盟のなかに湧きおこった」と述べている(*1)。3月に中国美術家協会から同意の旨が伝えられて、9月に、河北倫明を団長、桑原住雄を副団長とし、団員のヨシダ・ヨシエ、富山秀男、川口直宜、そして秘書の小暮貴代(日中文化交流協会事務局員)からなる日本美術評論家代表団を派遣し、10日間にわたって北京、西安、杭州、上海を訪れた(*2)。帰国後、桑原は、抽象美術も認める中国美術界の進展に感嘆すると同時に、日中の美術関係者が話題にするのを避けている「戦争の記憶」に「照明をあてなければ共通の歴史認識をもつことはできないだろう」と述べ、真の交流事業の難しさを指摘している(*3)。

 翌1989年11月、今度は、王朝聞を団長とし、団員の湯池、夏碩琦、楊悦浦、馬鴻増、賈方舟、通訳の陶勤からなる中国美術理論家代表団が訪日し、15日間にわたって東京、京都、奈良、広島、福山、倉敷、福山を訪れた(*4)。代表団の帰国後、桑原は、「6月の事件」(天安門事件)に触れつつ、「状況の急変に直面し、クリアしなければならない問題も出てきた」が、「無事に難関を乗りこえた」として招待事業の成功を喜ぶ一方で、日中のあいだの腹の探り合いも伝えている。「中国では、政治的指導によって美術が画一化されることがあり得るか」と日本側が質問したのに対して、中国側が「けさ日展を見てきたが、彫刻会場に並んでいた作品は、みんな同じに見えた。日展では画一的な彫刻を作るよう指導しているのか」と返してきて、「日本側は見事に一本とられた形になって、大笑いになった」とまとめている(*5)。桑原は、『文部時報』に文章を寄せた文章でこのときの中国の美術評論家との交流にも触れている(*6)。この文章は、訪日した代表団の通訳の陶勤が中国の『美術』1991年4月号に翻訳している(*7)。

 交流事業の第2弾は、早くも翌年に始まった。1990年11月に14日間にわたって、鈴木進を団長とし、団員の田中穣、海上雅臣、ワシオ・トシヒコ、嶋田康寛、大塚雄三、秘書の小暮貴代からなる代表団が訪中し、北京、西安、南京、上海、蘇州を訪れた(*8)。新作展も訪れたようだが、帰国後の報告を見ると、故宮博物院の「中国文物精華展」など、伝統的な中国美術に圧倒されたようである(*9)。1991年9月には、華夏を団長とし、団員の姜維樸、楊成寅、王宏建、黄可、通訳の陶勤からなる中国美術理論家代表団が来日し、14日間にわたって東京、京都、信楽、倉敷、福山、福岡を訪れた(*10)。代表団が来日中、福岡では費大為が企画した「中国前衛美術家展[非常口]」が開催されていたが、視察することはなかった(*11)。

 その後、交流事業は公開のシンポジウムへと発展した。1993年3月26日から27日にかけて、美術評論家連盟、中国美術家協会、日本中国文化交流協会、日本経済新聞社が主催し、「’93東京・日中美術シンポジウム 日本と中国における近代美術とは何か」を日経ホールで開催した。日本側の出席者は、河北倫明、富山秀男、陰里鉄郎、鶴田武良、岩崎吉一、加山又造、細野正信、島田康寛、利根山光人、峯村敏明、中村英樹、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、海上雅臣、瀧悌三、鈴木進の16名、中国側の出席者は、王琦、靳尚誼、鍾涵、鄧福星、劉曦林、陶勤の6名であった(*12)。中国側の出席者は3月23日に来日し、シンポジウムに参加しつつ、7日間にわたって東京の美術関係者と交流した。シンポジウムは、外務省、文化庁、中国大使館が後援し、タカシマヤ文化基金が協賛しており、豪華な小冊子も作られた(*13)。シンポジウムの案内には抽選で600名に聴講券を送るとあり(*14)、実際日経ホールは610名を収める施設であることを考えると、1998年の国際美術評論家連盟日本大会を除くと、このシンポジウムが美術評論家連盟の歴史の中で最も大がかりなものだったように思われる。シンポジウムの趣旨は、西洋美術が日中両国の近代美術に与えた影響と日中間の美術交流を検証するというものだったが、テーマがあまりに大きく、議論が十分に深まらなかったという報告もあった(*15)。

 約2年後の1995年1月、今度は日本美術評論家代表団が7日間の日程で訪中して、北京で開催されたシンポジウムに参加した。鈴木進を団長、陰里鉄郎を副団長とし、団員の針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、海上雅臣、峯村敏明、島田康寛、川口直宜、秘書の小暮貴代、辻ユカリ(日本経済新聞)の10名からなる代表団が北京を訪れた。8日から9日にかけて、美術評論家連盟、中国美術家協会、日本中国文化交流協会、日本経済新聞社が主催する「日中美術シンポジウム 21世紀に向かう東洋美術」を北京・京豊賓館で開催した。日本側からは上記10名、中国側からは華夏、王琦、李天祥、姚有多、靳尚誼、鍾涵、金維諾、邵大箴、王宏建、詹建俊、孫克、夏碩琦、王仲、陳瑞林、劉曦林、陶勤の16名が出席し、中国画、日本画、洋画などについて議論した。このときの訪中については、『日中文化交流』の記事があるほか(*16)、会報本号で峯村敏明氏が触れている。

 1988年以来、日中の美術評論家の交流を推進してきた河北倫明は、1994年で会長を退任し、95年10月30日に逝去。以後、日中文化交流協会を経由した中国美術家協会との交流事業はしばらく途絶える。1995年から98年まで会長を務めた本間正義のときには交流はなく(ただし、1998年の国際美術評論家連盟日本大会には栗憲庭が参加した)、1999年から2008年まで会長を務めた針生一郎のとき、2007年11月25日に、美術評論家連盟はシンポジウム「超資本主義への疾走 中国現代美術の現状と未来」を東京国立近代美術館で開催した。『Visual Production』誌編集長を務める顧振清が講演し、南嶌宏の司会のもと、南條史生、清水敏男と討論したが、顧には、日中文化交流協会や中国美術家協会経由ではなく、連盟の会員の関係で講演を依頼した(*17)。

 その後、2009年から2011年まで会長を務めた中原佑介のときに、美術評論家連盟は再び、日本中国文化交流協会、中国美術家協会とともに中国美術家代表団が参加するシンポジウムを東京で開催した。2010年11月12日から17日にかけて、日中文化交流協会の招きにより、邵大箴を団長とし、張暁凌、丁寧、杭間、蘭瑩からなる中国美術家代表団が来日し、東京、河口湖、横浜を訪れた。14日、彼らは東京国立近代美術館で開催されたシンポジウム「美術とグローバリズム?」(美術評論家連盟、中国美術家協会、日本中国文化交流協会主催、中国大使館後援、タカシマヤ文化基金協賛)に出席した。辻井喬、建畠晢、邵大箴が基調講演を行い、パネルディスカッションには、日本側は牧陽一、峯村敏明、呉孟晋が、中国側は張暁凌、丁寧、杭間が出席した(司会は川口直宜)(*18)。この頃には日本でも、「アヴァンギャルド・チャイナ 〈中国当代美術〉二十年」展(2008—09年)が国立新美術館、国立国際美術館、愛知県美術館で開催され、牧のように中国の現代美術に精通する者も登場しており、美術関係者の間で、中国の現代美術、とりわけ政府とは別に活動する美術家に対する関心が高まっていた。シンポジウムで議論がかみ合わなかった様子が伝えられているが(*19)、こうした中で政府側の団体と交流事業を行うことの難しさが浮き彫りになったと思われる。

 過去20年間、美術評論家連盟は、国内での活動を中心に行ってきた。その間、海外の事情に通じる会員も増えており、また、国内で生じている様々な問題をより広い文脈で考察し、海外の美術関係者とも情報共有する必要性が出てきている。美術評論家連盟は、新たな国際交流事業を行う時期に来ているのではないだろうか。

 

  1. 桑原住雄「日中美術の接点」『日中文化交流』447号(1988年12月5日)、2頁。
  2. 無署名「河北倫明氏を団長に一行6名 日本「美術評論家」代表団が訪中 9月8日出発 北京、西安、杭州、上海へ」『日中文化交流』440号(1988年9月1日)、5頁、河北倫明「日中美術評論家の交流」『日中文化交流』444号(1988年11月15日)、1頁、無署名「北京、西安、杭州、上海を訪問 “美術評論”の交流深め 河北倫明団長ら代表団帰国」同、8-10頁。
  3. 註1参照。
  4. 無署名「王朝聞を団長とする中国「美術理論家」代表団 一行7名11月9日到着」『日中文化交流』462号(1989年11月1日)、2頁、河北倫明「中国「美術理論家」代表団一行を迎えて」『日中文化交流』464号(1990年1月1日)、2頁、無署名「王朝聞団長ら美術界の有効と相互理解を深め 中国「美術理論家」代表団帰国」同、14-17頁。
  5. 桑原住雄「第一次交流の完結に想う 日中美術評論家の交流事業」『日中文化交流』465号(1990年2月1日)、14頁。
  6. 桑原住雄「これからの日中美術」『文部時報』1363号(1990年8月)、20-23頁。
  7. 桑原住雄〈今后的日中美术〉陶勤译《美术》1991年4期、66-67頁。
  8. 無署名「鈴木進氏を団長に 日本「美術評論家」代表団 一行7名 11月16日中国へ」『日中文化交流』477号(1990年11月5日)、4頁、鈴木進「無尽蔵の宝庫」『日中文化交流』480号(1991年1月1日)、8頁、無署名「“美術評論”の交流深め 鈴木進団長ら代表団帰国」同、18-20頁、田中穣「初めての中国で」『日中文化交流』481号(1991年2月1日)、10頁。
  9. 鈴木進「無尽蔵の宝庫」『日中文化交流』480号(1991年1月1日)、8頁。
  10. 無署名「華夏を団長とする中国「美術理論家」代表団 一行6名 9月28日来日」『日中文化交流』492号(1991年10月1日)、5頁、無署名「華夏団長ら中国「美術理論家」代表団帰国 各地での交流に成果」『日中文化交流』496号(1991年12月10日)、24-26頁。
  11. ただし、9月28日に来日した代表団が福岡を訪問したのは10月6日と7日であり、「中国前衛美術家展[非常口]」は、Part 1が8月29日から9月29日、Part 2が9月1日から9月30日の開催だったため、福岡を訪れた日には展覧会は終了していた。
  12. 河北倫明「日中美術シンポジウム開催にあたって」『日中文化交流』516号(1993年3月1日)、1頁、無署名「王琦副主席、靳尚誼院長ら中国美術家代表団を迎え、’93東京・日中美術シンポジウム「日本と中国における近代美術とは何か」 東京で開催」同、2頁、加山又造、富山秀男、馬驍、中川健造「日中美術シンポジウムに参加して」『日中文化交流』520号(1993年5月1日)、9頁、岩崎吉一「日中美術シンポジウムを成功裏に終えて」同、10頁、無署名「日中美術シンポジウム開かる 相互理解に大きな成果 3月26・27日東京で」同、11-12頁、王琦団長らシンポジウム出席の中国美術家代表団帰国」同、12-14頁。
  13. 美術評論家連盟は、1991年度にタカシマヤ文化基金から「日中近代美術シンポジウム」開催に対する第1回シンポジウム開催団体への助成として2000万円を支給されている。
  14. 無署名「日中美術シンポジウム 日本と中国の近代美術とは何か」日本経済新聞、1993年2月23日朝刊、34面。
  15. 無署名「文化往来 日中美術シンポ」日本経済新聞、1993年4月16日朝刊、40面。
  16. 無署名「’95中日美術シンポジウム「二十一世紀に向かう東洋美術」 1月8、9日北京で開催 日本「美術評論家」代表団が訪中」『日中文化交流』553号(1995年1月5日)、3頁、鈴木進「北京での中日美術シンポジウム」『日中文化交流』556号(1993年3月1日)、7頁、無署名「「二十一世紀に向かう東洋美術」をテーマに 北京で中日美術シンポジウム 鈴木進団長ら 日本「美術評論家」代表団帰国」同、8-9頁、陰里鐵郎「中日美術シンポジウムに参加して」『日中文化交流』557号(1993年4月1日)、8頁。
  17. このときの顧振清の講演のダイジェストは美術評論家連盟の会報に掲載されている。南嶌宏「美術評論家連盟シンポジウム2007報告 超資本主義への疾走—中国現代美術の現在と未来—」『aica JAPAN NEWS LETTER 美術評論家連盟会報』第9号(2008年11月)、26-27頁。
  18. 無署名「邵大箴氏を団長に中国美術家代表団が来日 日中美術シンポジウムに出席 11月12日到着 一行5名」『日中文化交流』773号(2010年11月1日)、3頁、無署名「日中美術シンポジウム「美術とグローバリズム?」開催さる 中国美術家代表団が出席 11月14日東京国立近代美術館講堂」『日中文化交流』775号(2011年1月1日)、20-22頁、「邵大箴団長ら中国美術家代表団 訪日記録 11月12日〜11月17日」同、23頁。
  19. https://mushou.hatenablog.com/entry/20101115/1289797561 (2019年10月23日閲覧)

 

 

『美術評論家連盟会報』20号