美術評論家連盟設立の経緯  加治屋健司

2019年11月23日 公開

様々な分野からの参加

 美術評論家連盟は、1954年に5月15日に当時京橋にあった国立近代美術館(現 東京国立近代美術館)で創立総会が開かれて結成された(*2)。美術評論家連盟は、日本における美術評論家の団結をはかるとともに、国際的に協力し、造形文化の発展に寄与することを目的として(*3)、国際美術評論家連盟の日本支部として設立され、国立近代美術館内に事務所を置いた。

 結成時の会長は土方定一、常任委員長は富永惣一、常任委員は今泉篤男、金丸重嶺、勝見勝、嘉門安雄、浜口隆一、山田智三郎、和田新、事務総長は河北倫明、書記は小倉克之(忠夫)である(*4)。書記以外は現在も存在する役職であり、結成時から組織の構成がほぼ変わっていないことが分かる。

 連盟に残されている参加申込書の葉書を見ると、1954年に、伊奈信男、岡田譲、河合正一、北園克衛、隈元謙次郎、小池新二、神代雄一郎、小山冨士夫、瀬木慎一、仲田定之助、林文雄、針生一郎、福島辰夫、前田泰次、室靖、森田茂介、湯川尚文、吉川逸治、吉阪隆正、渡辺力が入会している。参加申込書は、上記の役員及び書記の11名のものが残っていないため、他にも欠落している可能性があるが、少なくとも結成の年に31名が参加していたことが分かる(*5)。

 ここで重要なのは、この31名には美術評論家だけでなく、様々な分野の専門家が入っていることである。浜口、神代は建築評論家、小山は陶芸評論家、勝見、小池はデザイン評論家、伊奈、金丸、福島は写真評論家であり、河合、森田、吉阪は建築家、渡辺はデザイナー、北園は詩人である。そして、吉川は美術史家、前田は工芸研究者、室、湯川は美術教育者である。

 結成時の報道を見ると、美術評論家連盟は「狭義の美術に限らず、建築、工芸、写真、美術教育等に亘る評論家をも含み、造形文化に関する諸問題の検討、国際文化交流問題、関係諸機関や団体との協力、その他に関する団体的活動を行うこととしている」とある(*6)。美術評論家だけでなく、建築、工芸、写真、美術教育等の評論家、さらには建築家やデザイナー、詩人まで入っている多様な組織だったことは強調されるべきであろう。

 

設立の背景

 冒頭で記したように、美術評論家連盟は、国際美術評論家連盟の日本支部として設立された。実は、日本での結成の2年前の1952年に、国際美術評論家連盟は総会で日本支部、ドイツ支部、トルコ支部の正式加入を承認している(*7)。総会に出席した富永惣一は、連盟が事前に「日本支部を設けたい意向を知らせて来た」と述べている(*8)。日本支部の設立には、国際美術評論家連盟からの働きかけがあったと考えられる(*9)。美術評論家連盟の構想は遅くとも1952年には始まっていたと言える。

 結成のもうひとつの背景として、国際展への参加に評論家が組織として対応する必要があったことが挙げられる。1953年の第2回サンパウロ・ビエンナーレの参加にあたって、関係機関の連絡に不備があり申し込みが遅れたことから、1953年6月、外務省の外郭団体だった国際文化振興会以外に、「美術問題に関し各関係機関、団体等の連絡をはかり、妥当な方策をたてる便宜のための機関」として国際美術懇談会が非公式に設けられることになった。設置の会合には、外務省、文部省、文化財保護委員会、日本ユネスコ国内委員会、国立博物館、国立近代美術館、日本美術家連盟、国際文化振興会等の代表者が参加した(*10)。1954年ヴェネチア・ビエンナーレに参加するにあたって、同年2月に国際美術懇談会が開かれ、参加作家の選考に向けて美術家と評論家それぞれ5名ずつ選考委員を設けることになった。そのとき、美術家は日本美術家連盟が委員を推薦したものの、評論家の方は組織として対応することができず、富永、土方定一、今泉篤男が選考委員を推薦することになった(*11)。このとき彼らが、評論家も組織として対応する必要があると感じたことは十分に考えられる。実際、1955年のサンパウロ・ビエンナーレに参加する際は、国際美術懇談会が美術評論家連盟と日本美術家連盟の代表者からなる準備委員会を設置することになった。ただし、国際美術懇談会はあくまでも便宜的な連絡機関にすぎなかったため、1957年3月に、美術評論家連盟と日本美術家連盟は連名で国際展参加等の問題に対応する機関の設立を外務大臣と文部大臣宛に陳情し(*12)、同年8月に国際美術協議会が発足することになった(*13)。

 1952年7月に国際美術評論家連盟が日本支部を承認した後、1954年5月の美術評論家連盟結成まで2年近い期間が開いているが、1954年2月に国際美術懇談会が開かれて、評論家が組織として対応するべき案件が生じたことを考えると、美術評論家連盟の結成に直接影響を与えたのは、国際展参加への対応の問題だったと考えられる。そうであればこそ、規約第2条の目的の二つめに「国際的に協力」することが掲げられているのも納得がいく。

 

連盟結成以前の評論家団体

 美術評論家の団体は、明治期には結成されており、その後も様々な団体が結成された(*14)。1905年にさくら倶楽部、1914年に美術雑誌記者団、1919年に東京美術雑誌記者団、1931年に日本美術批評家協会、1931年に新興美術批評家協会、1936年に美術批評家協会、1937年に美術懇談会、1939年に美術記者連盟、1940年に美術問題研究会が結成されている。戦後は、1946年に新聞社を中心に美術記者クラブ(後に美術記者会に改称)が結成され、1949年に美術評論家組合(後に美術評論家クラブに改称)、1954年に美術評論家連盟、1955年頃に美術雑誌の出版社を中心に美術評論家協会が結成されている。

 ここでは美術問題研究会、美術評論家組合、美術評論家クラブに触れておきたい。

 

(1)美術問題研究会

 美術問題研究会とは美術評論家の団体で、1940年に挙国一致の政治体制の確立を目指した新体制運動に呼応して設立された。尾川多計、荒城季夫、柳亮、今泉篤男、富永惣一、田中一松、大口理夫、水沢澄夫、相良徳三、森口多里、土方定一等を発起人とし、連絡先は尾川方となっている(*15)。

 これまで、美術評論家連盟の前身団体として美術問題研究会の名前が挙がることがしばしばあった。昭和30年版の『日本美術年鑑』の「美術評論家クラブ」の項目には次のように書かれている。「昭和15年創立の美術問題研究会は同25年[ママ]に改組して美術評論家組合として再出発したが、同26年[ママ]に更に美術評論家クラブと改称した。[…]美術評論家連盟の創立と共に発展的解消をした」(*16)。そして、美術評論家連盟が保管する資料に、山種美術館の便箋に手書きで書かれた「美術評論家連盟結成経緯」と題された文書があり、美術問題研究会の結成とその後の変遷が記されている(*17)。

 だが、これらの資料から、美術問題研究会を美術評論家連盟の前身団体とみなすことは難しいように思われる。『日本美術年鑑』の記述は、美術評論家クラブの結成の経緯として美術問題研究会に触れたものであり、美術評論家連盟の結成の経緯に関するものではない。同記述は「美術評論家クラブは美術評論家連盟の創立と共に解消した」という意味にすぎず、「美術評論家連盟は美術評論家クラブを改組して結成された」ということを意味するものではない。実際、『日本美術年鑑』の昭和29年版の美術団体一覧には美術評論家クラブと美術評論家連盟の2つの項目があり、前者は美術問題研究会に触れているものの、後者は美術問題研究会や美術評論家クラブへの言及はなく、美術評論家連盟が別組織として結成されたことを示している(*18)。「美術評論家連盟結成経緯」の方はどうか。この文書は、結成の経緯を知る者の覚書ではなく、『日本美術年鑑』昭和16年版と昭和30年版の文章を抜き書きしたものにすぎない(*19)。これらの文章は、美術評論家連盟の結成の経緯を記した文章とは言えない。美術問題研究会はかつて存在した美術評論家の団体であり、美術評論家連盟は、それとは別個に結成されたのである。

 

(2)美術評論家組合

 美術評論家組合は1949年3月2日に結成された(*20)。民主主義への期待を示す名称を持つこの団体は、今泉、土方、柳、植村鷹千代等が発起人となり、組合員の利益擁護と相互扶助を目的として設立されたものである。今泉が組合長となり、幹事は富永、今泉、江川和彦、水沢、河北倫明、鈴木進の6名が務め、組合員数は発足時65名であった(*21)。当時の日本は労働組合の結成が盛んであり、その活動も活発であった。美術評論家組合の結成の後、美術家の間で組合の結成の動きが起こり、日本美術家連盟が結成されたのも、こうした状況においてであった(*22)。先述したように、『日本美術年鑑』は美術評論家組合を美術問題研究会の改組としているが、美術評論家組合の結成は、1940年代後半における労働組合の展開という文脈の中で理解する方がよいように思われる。なお、美術評論家組合は、1951年8月11日付の「国立近代美術館建設地に関する声明書」に日本美術家連盟、日本博物館協会、日本文芸家協会、日本ペンクラブとともに名を連ねているが(*23)、それ以外の活動はほとんど知られていない。

 

(3)美術評論家クラブ

 美術評論家クラブの名称は、1952年2月に刊行された『日本美術年鑑』(昭和22、23、24、25、26年度版)に登場する。創立が1949年3月とあるので、美術評論家組合の名称変更と考えるのが妥当であり、1951年8月から1952年1月までの間に改称したと思われる(*24)。美術評論家クラブは、美術評論家相互の親睦と活動に必要な事業を行うことを目的としており、幹事は土方、田近憲三、河北、瀧口修造、徳大寺公英、鈴木、江川で、会員は60余名おり、他に富永、今泉、佐波甫、吉沢忠、摩寿意善郎等がいた(*25)。組合からクラブに改称した経緯は不明であるが、1949年6月に労働組合法が改正され1950年後半からレッド・パージが行われるなど労働組合に対する抑圧が強まる中で、労働組合ではない美術評論家組合が「組合」を名乗り続ける必要を感じなくなった可能性はあるだろう。また「クラブ」の名称は、日本ペンクラブや、後に作られる日本アブストラクト・アート・クラブや国際アートクラブ日本支部等のように国際的な響きがあったことも背景にあったかもしれない(*26)。

 美術評論家クラブの活動もあまり知られておらず、『美術批評』に何度か登場する程度である。まず、同クラブは、1952年6月号から11月号まで、10月号を除いて5回にわたって『美術批評』に「批評の広場」と題する1頁の批評欄を提供している(*27)。1人400字程度の寸評が4つまとまったもので、美術に関連した時事的なテーマを扱うコーナーである。9月号まではアルファベット1文字の署名だったが、国立近代美術館を扱った11月号は、吉沢、田近、佐波、徳大寺が名前入りで小文を寄せている。そして、同クラブは、12月号で座談会「ヴェニス・ビエンナーレ展を中心に美術界の現況をかたる」を主催している。富永、土方、今泉が「語る人」として、河北、摩寿意、鈴木、徳大寺、江川、瀧口が「きく人」として参加している(*28)。

 

結成への言及の少なさ

 奇妙なのは、美術評論家の団体は、当時の美術雑誌や新聞にほとんど言及がないことである。当時は美術家の団体の活動が盛んであり、頻繁に美術雑誌や新聞に登場していたが、評論家の団体が取り上げられることはなかった。美術雑誌に掲載されていた所属団体別の住所録にも評論家の団体が掲載されることはなかった。富永惣一、今泉篤男、土方定一をはじめ、美術評論家組合やクラブ、美術評論家連盟の活動に積極的に関わっていた評論家は一定数おり、彼らは新聞や雑誌に頻繁に寄稿していたが、美術評論家の団体を紹介するどころか、言及することさえなかった。富永は『美術批評』で1952年の第4回世界美術評論家連盟大会への参加を報告しているが、自身も会員であり当時活動もしていた美術評論家クラブに一切言及していない。『美術批評』や『芸術新潮』、『アトリヱ』等には、美術界の動向を伝える消息欄があり、国際美術評論家連盟の活動はしばしば取り上げられたが(*29)、国内団体の活動が紹介されることはなかった。美術評論家組合の結成は新聞や雑誌で短く報じられたものの(*30)——美術評論家クラブは改称ゆえ報道がなかったことは理解できる——、美術評論家連盟の結成は、『日本美術家連盟ニュース』を除くと、『美術手帖』1954年9月号に掲載された「12人の美術批評家」において、「戦前派、戦後派とりまぜて数十人の美術評論家連盟も発足したとやら」と、伝聞で伝えられたくらいである(*31)。『日本美術年鑑』の「美術界年史」にも採録されなかった。美術評論家たちが自ら積極的に団体について語ろうとしなかったと考えるのが自然であろう。

 美術評論家が積極的に語らなかった理由はいくつか考えられる。ここでは美術評論家連盟について考えてみたい。

 まず、美術評論家連盟は、国際美術評論家連盟からの働きかけを受けつつ、国際展参加等の問題に対応する必要に迫られて結成されたのであって、芸術に関する何らかの思想や立場に賛同する評論家が結集してできたのではなかったことが挙げられる。針生一郎は後年の座談会で、連盟に入会した頃を振り返って、「どうせ職能組合だろうと思っていました」と述べている(*32)。結成の頃に行っていた国際展事業への対応に関して、社会一般にアピールする必要性を感じなかった可能性もある。

 そして、連盟で中心的な役割を果たしていた評論家は、連盟以外に活動の場を持っていたこともあるだろう。彼らの多くは、評論家として、新聞や当時は沢山あった美術雑誌に頻繁に芸術論や展覧会評を書いていた。そのうえ、土方は神奈川県立近代美術館副館長を務め、今泉は国立近代美術館次長、富永は学習院大学教授として、それぞれの組織での仕事があり、連盟が活動の中心になっていなかった。

 また、当時は美術団体解消論が盛んであり、評論家が率先して唱えることが多かったため、評論家団体の結成について積極的に説明するのを避けた可能性もゼロではないだろう。『美術批評』1952年10月号で梅原龍三郎との対談で、今泉は美術団体の解消・再編成を提案し、読売新聞に「美術団体は無用か」と題する記事が続いた。翌1953年3月にも朝日新聞の論壇で今泉は「美術団体の再編を提唱」を発表して、さらに話題を呼んだ(*33)。今泉が指摘する美術団体の弊害は評論家の団体に直ちに当てはまるものではなかったにせよ、こうした見解を発表している評論家が団体の結成について積極的に発言するのは難しかったのかもしれない。実際、『美術手帖』1949年6月号では、団体の結成を聞きつけた画家から以下のように揶揄されている。

 

現在公けにそういう名前は聞いていないけれども或方面からきくと批評家同盟というものがあって、その中で色々こういうものを発展させ、こういうものを打物にしよう。そういうことがあるらしいんですよ。(笑声)今度はこれ、今度はこれということがチャンと出来ていて、何か、こう、花火をうつみたいにね。極端に云いますとね、そういうことになっちゃ批評家同盟も困りますね……(*34)。

 

ここでいう「批評家同盟」とは美術評論家組合のことであろう。土方はこの発言に対して「のんきなデマ放送」と批判しているが(*35)、かといって、美術評論家組合について説明しないため、当時の読者は、批評家の団体など存在しないと思ったに違いない。

 いずれにしても、美術評論家連盟の結成に関与した評論家は、結成について文章を残さなかったため、その経緯は長い間知られることがなく、また、不正確に伝わってきたのである。

 

おわりに

 美術評論家連盟の結成当初、美術評論家は、その活動を積極的に語ろうとは思わなかったようであるし、実際に語ることがなかった。しかし、冒頭で指摘したように、様々な領域の評論家の顔ぶれを見ると、国際美術評論家連盟の後押しや国際展事業への対応という実際的な必要性があったにせよ、新しい美術評論をつくっていこうという思いが感じられるのも事実である。瀬木慎一は、結成にあたって会員が厳選された様子を伝えている(*36)。厳選した会員が集まって、単に団体としての業務に徹していたわけではないだろう。針生が発言したのと同じ座談会で、中原佑介は、「職能団体といえば確かにそうなんだけども、批評の自律ということが、こういう組織ができたことによって一つの道を切り開けるのではないかと」思ったと述べている(*37)。中原は結局はそうでなかったとしているものの、美術評論家連盟は、1957年の「国際美術問題処理機関」に関する陳情書に始まり、さまざまな声明や要望を表明してきた。国や美術館に対してあるべき方向を示し、ときにはシンポジウムを開いて議論を深めてきた。近年はますますこうした活動が盛んになっており、まさに批評の自律を体現する組織となってきたのではないか。美術評論家連盟は、その結成時の思いを、長年の活動を通して、少しずつ実現させているのである。

 

  1. 設立の経緯については会員の倉林靖がまとめている。倉林靖「美術評論家連盟結成経緯」『aica JAPAN NEWS LETTER 美術評論家連盟会報』第5号(2004年10月)、10-11頁、倉林「美術評論家連盟結成経緯・補遺―戦前の「美術批評家協会」について」『aica JAPAN NEWS LETTER 美術評論家連盟会報』第6号(2005年10月)、32頁、倉林「結成経緯」http://www.aicajapan.com/ja/about/background/(2019年10月31日閲覧)。本稿は、新たに発見した資料を適宜参照して、より詳細に記述することを目的としている。
  2. 無署名「美術評論家連盟結成さる」『日本美術家連盟ニュース』43号(1954年6月)、5頁。
  3. 「美術団体一覧」『日本美術年鑑』(昭和29年版、東京国立文化財研究所、1954年)、269頁。この文言は、美術評論家連盟規約第2条と同じであることから、連盟の目的は結成以来変わっていないことが分かる。
  4. 瀬木慎一『戦後空白期の美術』(思潮社、1996年)、182頁。
  5. 結成時の会員数は資料によって異なる、土門拳による写真で12人の美術批評家を紹介する記事で、千木九郎(他に文章を発表しておらず、ペンネームと思われる)は「戦前派、戦後派とりまぜて数十人」と述べている。千木九郎・文、土門拳・写真「12人の美術批評家」『美術手帖』85号(1954年9月)、46頁。瀬木慎一は註4の書籍(182頁)で、「発足時の会員はせいぜい20名程度」と書いている。瀬木によると、印刷された名簿があったようだが、現在の連盟には残っていない。
  6. 註2の文献を参照。
  7. Anonymous, “International Association of Art Critics, 4th General Assembly, Zurich-Basle-Lauzanne, July 7-12, 1952 [Compte-rendu de l'Assemblée générale, 1952],” FR ACA AICAI THE CON005 04/06, Archives de la critique d’art, Rennes, France.
  8. 富永惣一「第4回世界美術評論家会議」『美術批評』11号(1952年11月)、26-27頁。
  9. この点については瀬木慎一も、日本は国際美術評論家連盟に「誘われて参加し、この打診を受けて[…]日本に加入の意思があることを表明した」と述べている。瀬木『日本の前衛 1945-1999』(生活の友社、2000年)、245頁。
  10. 「国際美術懇談会できる」『日本美術家連盟ニュース』36号(1953年8月)、3-4面。
  11. 「ビエンナーレ日本参加きまる」『日本美術家連盟ニュース』40号(1954年3月)、4面。
  12. 「「国際美術問題処理機関」に関し政府に陳情」『日本美術家連盟ニュース』67号(1957年3月)、1-2面。この記事には「国際美術問題処理機関の確立について」と題された陳情書の全文が掲載されている。
  13. 「国際美術協議会」『日本美術家連盟ニュース』70、1957年9月、5面。
  14. 五十殿利治「明治末から大正期にかけての美術批評家の動向について」五十殿利治・大谷省吾編『美術批評家著作選集第19巻 批評と批評家』(ゆまに書房、2016年)、597-623頁、大谷省吾「昭和戦前期の美術批評の動き——新興美術批評家協会と美術批評家協会を中心に」同書、627-648頁。
  15. 「美術界彙報」『日本美術年鑑』(昭和16年版、美術研究所、1942年)、88頁。
  16. 「美術団体一覧」『日本美術年鑑』(昭和30年版、東京国立文化財研究所、1956年)、310頁。
  17. この文書を全文掲載する。この文書は原本がなくコピーしか残っていないため、紙質等から執筆年を推測することは難しく、また、執筆者も不明である。

 

美術評論家連盟結成経緯

昭和15年(1940)

新体制に呼応し、尾川多計、荒城季夫、柳亮、今泉篤男、富永惣一、田中一松、大口理夫、水沢澄夫、相良徳三、森口多里、土方定一等を発起人として「美術問題研究会」が12月6日丸の内エーワンにおいて発会式を開く。

事務局は尾川多計方(東京市淀橋区下落合4-2071)。会員は、今泉篤男、蓮実重康、富永惣一、外山卯三郎、千沢植治、大口理夫、奥平英雄、尾川多計、嘉門安雄、横川毅一郎、田中一松、瀧口修造、田近憲三、谷信一、田中信行、仲田勝之助、中井宗太郎、長島喜三、仲田定之助、村田良策、内山義郎、黒田鵬心、山際靖、山田智三郎、柳亮、摩寿意善郎、小池新二、江川和彦、相良徳三、荒城季夫、佐波甫、北川桃雄、金原省吾、水沢澄夫、三輪福松、土方定一、森口多里、森田亀之助、鈴木道、鈴木道夫、青柳正広、新規矩雄、税所篤二、楢崎宗重、四宮潤一、鈴木仁一、坂崎坦、植村鷹千代、児島喜久雄、何初彦、大島隆一、勝原雅大。

 

※昭和11年(1936)10月設立の「美術批評協会」がある。

 

美術問題研究会は、昭和25年(1950)改組して美術評論家組合として再出発したが、同26年更に「美術評論家クラブ」と改称した。同29年美術評論家連盟」の創立とともに発展的解消をした。

幹事は、土方定一、田近憲三、河北倫明、滝口修造、徳大寺公英、鈴木進、江川和彦。会員60余名。

 

会長 土方定一、常任委員長 富永惣一、常任委員 今泉篤男、金丸重嶺、勝見勝、嘉門安雄、浜口隆一、山田智三郎、和田新、事務総長 河北倫明、書記 小倉克之。

 

  1. 「美術団体一覧」『日本美術年鑑』(昭和29年版、東京国立文化財研究所、1954年)、269頁。美術問題研究会については、むしろ、その前身について議論する必要があるように思われる。1945年10月2日の毎日新聞に、同社が進駐軍の協力を得て主催する「油絵と彫刻」展(日本橋三越)の予告がある。これは、藤田嗣治の戦争責任問題を取り上げたことで知られる宮田重雄「美術家の節操」が書かれるきっかけとなった展覧会の予告記事であるが(この毎日新聞の記事を読んで、宮田は藤田の参加を批判したが、毎日の記事は誤報であり、藤田は参加していなかった。つまり、藤田は無関係の展覧会への参加を批判され、それに反論した文章等が問題を大きくして戦争責任を追及されることになった)、この展覧会のために作品を選定した尾川多計を「美術批評家協会(旧美術問題研究会)在京会員」と紹介しているのである。もっとも、この文言をもって美術批評家協会が戦後に復活したと断言するのは難しい。尾川が個人的にそのような考えをもっていただけかもしれない。尾川は10月1日に交通事故で負傷し、3日の手術中に亡くなったため真相は不明であり、美術批評家協会の復活もなかったと思われる。「油絵と彫刻の会」『毎日新聞』(1945年10月2日)、2面、「美術と音楽の憩ひ」『毎日新聞』(1945年10月6日)、2面、宮田重雄「美術家の節操」『朝日新聞』(1945年10月14日)、2面、藤田嗣治「画家の良心」『朝日新聞』(1945年10月25日)、2面。
  2. 註15、16の文献及び以下を参照。「美術家団体一覧」『日本美術年鑑』(昭和16年版、美術研究所、1942年)、46-47頁。なお、『美術評論家連盟会報』第1号のあとがきで、ヨシダ・ヨシエが美術評論家連盟の母体として、美術問題研究会を挙げているが、こちらも『日本美術年鑑』昭和16年版と昭和30年版の文章を組み合わせたものである。Y[ヨシダ・ヨシエ]「あとがき」『aica JAPAN NEWS LETTER 美術評論家連盟会報』第1号(2001年2月)、20頁。
  3. 「記録」『アトリヱ』269号(1949年6月)、64頁、「美術界五年史」『日本美術年鑑』(昭和22、23、24、25、26年版、美術研究所、1952年)、33頁、「美術評論家組合」『朝日新聞』(1949年2月20日)、2面、「美術評論家組合発足」『毎日新聞』(1949年2月21日)、2面、も参照。4つの記事で発会日にばらつきがあるが、朝日と毎日の記事は発会前に書かれたものなので、発会後に刊行された『アトリヱ』と『日本美術年鑑』の日付を採用する。『日本美術年鑑』の昭和27年版から昭和30年版までの「美術団体一覧」は1950年としているが、誤りである。
  4. 「美術評論家組合の結成」『美術運動』1号(1949年3月25日)、1面。
  5. 「美術家組合結成の動き」『美術運動』2号(1949年4月25日)、1面。
  6. 「国立近代美術館問題の経過」『日本美術家連盟ニュース』20(1951年9月)、1面。
  7. 「美術団体一覧」『日本美術年鑑』(昭和22、23、24、25、26年版、美術研究所、1952年)、212頁。それ以前の使用例は見つかっていない。『日本美術年鑑』の昭和27年版から昭和30年版までの「美術団体一覧」は1951年改称としているが、誤りである。
  8. 「美術団体一覧」『日本美術年鑑』(昭和27年版、美術研究所、1953年)、228頁、富永惣ー・土方定一・今泉篤男・河北倫明・摩寿意善郎・鈴木進・徳大寺公英・江川和彦・瀧口修造「座談会 ヴェニス・ビエンナーレ展を中心に美術界の現況をかたる」『美術批評』12号(1952年12月)、21-31頁。
  9. 当時、東郷青児、岡田謙三、里見勝蔵、福沢一郎等が参加する「国際美術家クラブ」もあった。「国際美術家クラブ街頭展」『アトリヱ』278号(1950年3月)、55頁。
  10. 「批評の広場」『美術批評』6号(1952年6月)、46頁、「批評の広場」『美術批評』7号(1952年7月)、27頁、「批評の広場」『美術批評』8号(1952年8月)、46頁、「批評の広場」『美術批評』9号(1952年9月)、46頁、吉沢忠、田近憲三、佐波甫、徳大寺公英「批評の広場 国立近代美術館」『美術批評』11号(1952年11月)、18頁。
  11. 註25の『美術批評』の座談会を参照。
  12. 『アトリヱ』は国際美術評論家連盟の第1回と第3回大会を紹介している。無署名「海外通信」『アトリヱ』266号(1949年3月)、20頁、無署名「ART COMMENT」『アトリヱ』299号(1951年10月)、61頁。他に、末松正樹「フランス便り」『BBBB』3号(1950年2月)、77頁、無署名「美術 海外短信」『芸術新潮』5巻8号(1954年8月)、17頁。
  13. 註20の文献を参照。
  14. 『日本美術家連盟ニュース』については註2を参照。「12人の美術批評家」については註5を参照。
  15. 針生一郎・中原佑介・高島直之「AICA日本支部50年に際して 美術批評の自律を求めて」『aica JAPAN NEWS LETTER 美術評論家連盟会報』第5号(2004年10月)、1頁。
  16. 今泉篤男・梅原龍三郎「近代絵画の性格」『美術批評』10号(1952年10月)、28-34頁、硲伊之助・福島辰夫・東郷青児「美術団体は無用か」『読売新聞』(1952年10月11日夕刊)、2面、今泉篤男「美術団体の再編を提唱」朝日新聞1953年3月29日朝刊、3面。
  17. 山本正・岩崎鐸・鶴岡政男・斎藤愛子・中谷泰「座談会 画家と生活」『美術手帖』18号(1949年6月)、37頁。引用は山本の発言。
  18. 土方定一「批評の批評の批評」『アトリヱ』274号(1949年11月)、48-50頁。『アーティストとクリティック 批評家・土方定一と戦後美術』(三重県立美術館、1992年)、230頁に再録。
  19. 註4の文献を参照。
  20. 針生・中原・高島「AICA日本支部50年に際して」、4頁。

 

『美術評論家連盟会報』20号