特集趣旨  加治屋健司

2019年11月23日 公開

 本号は、「美術評論家連盟は何をしてきたのか」と題する特集を企画する。美術評論家連盟(以下、連盟)は、1954年5月に結成されて以来65年が経過したが、その活動は広く知られているわけではなく、不明な点も少なくない。会員、非会員を問わず、今日、多くの者にとって、連盟とは、表現の自由に対する抑圧など、美術に関する問題が社会で生じたときに声明や要望を表明する美術評論家の団体として考えられているように思われる。戦後日本美術に興味を持つ者にとっては、戦後史の様々な局面においてその名を目にすることもあるが、その場合でも、連盟の活動は断片的にしか知られていないのではないだろうか。

 本特集は、連盟が行ってきた主な活動を紹介する。長年の活動を知るために、まず、鏑木あづさ氏(元埼玉県立近代美術館司書、アーキビスト、非会員)に依頼して、連盟が保管する資料を調査・整理した。その資料や関連資料を活用しながら、14名の会員が連盟の活動について、鏑木氏が資料について執筆した。

 各文章が示すように、連盟の活動は多岐にわたっているが、いくつかの分野に重点的に取り組んできたことが分かる。

 まず、国際的な事業への取組が挙げられる。連盟は、国際美術評論家連盟の日本支部として結成された団体である。連盟結成の背景には、国際美術評論家連盟の後押しもあったが、直接的には国際展事業への対応があった。1953年から1957年までヴェネチア・ビエンナーレやサンパウロ・ビエンナーレへの参加に係る準備を行っていた国際美術懇談会に参加し、その後に設置された国際美術協議会にも加わって、2003年まで国際展参加の協議に従事していた。様々な国際展事業に携わる片岡真実会員が今回の寄稿で指摘するように、連盟は初期にグッゲンハイム国際賞の審査に携わっていたことも強調されるべきであろう。

 また、1981年に外務大臣宛に提出したヴェネチア・ビエンナーレ日本館の改築に関する要望は、海外で日本の現代美術を見せる環境を改善したいという思いに発するものであった。この日本館の改築については、建築評論家でヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展のコミッショナーを務めたこともある五十嵐太郎会員が論じている。

 それから、1982年に開催された「日英現代美術国際シンポジウム」は、ブリティッシュ・カウンシルの全面的な協力のもとに実現した「今日のイギリス美術展」に連携する形で開催されたものであると、栃木県立美術館で同展の担当学芸員だった塩田純一会員が述べている。今回の特集では触れられなかったが、1977年の連盟の拡大常任委員会で、国際的な会議の開催、関連展覧会の開催、戦後日本美術のドキュメントの出版という3つのプロジェクトが議論された。「日英現代美術国際シンポジウム」は、このうち唯一実現したものだったと言える。

 また、1987年から1994年にかけての河北倫明会長時代には、日中美術評論家の交流事業が進められた。政府系の団体を通した交流は続かなかったが、欧米美術偏重を改めようという思いは、今回の峯村敏明会員の文章にも表れている。

 その後、連盟は、1998年に東京で国際美術評論家連盟日本大会を開催した。大会事務局長を務めた南條史生会員が指摘するように、1995年のマカオ大会に続く、アジアで2番目の開催である。今回触れることができなかったが、実は1965年に国際美術評論家連盟の国際大会の東京誘致の計画があり、立候補もしたものの日本側の事情で実現しなかった。その頓挫を考えると、バブル崩壊後の1998年に国際大会を招致することができたのは、連盟による国際的な事業のひとつの大きな成果だと言える。

 そして、連盟は美術館の活動にも積極的に関与してきた。片岡会員が指摘するように、初期には神奈川県立近代美術館での新人展の作家選定に当たったこともあった。注目するべきは、東京都美術館との関係である。同館の元学芸員で、東京府美術館の研究で知られる齊藤泰嘉会員が論じているように、1962年に反芸術の作品に対する対応として制定されたとされる陳列作品規格基準要綱に関して、連盟は美術館に要請状を送った上で、針生一郎、中原佑介、東野芳明等が館長等と話し合いの場を持ち、館側は表現を改めるとの意志を示した(が、その後改まることはなかった)。また、連盟は、1969年に同館の改築問題に対する声明を発表し、1975年に同館における企画展の開催、現代美術作品の収集、学芸員の配置等を求める要望書を東京都知事に送付している。

 1974年には、当時首相と各文化団体代表者のあいだで行われていた懇談会に先立ち、連盟は、自由民主党広報委員会文化局に要望書を提出している。ここでは、国立西洋美術館の増築、学芸員の再教育機関の設立、美術研究のための資料センターの設立、文化団体に対する援助の強化を訴えている。

 連盟は、1976年にパロディ裁判に関する声明を最高裁に送付して、マッド・アマノの主張を認めた高裁判決を支持した。その意義については、「パロディ、二重の声」展(東京ステーションギャラリー、2017年)を手がけた成相肇会員が詳細に論じている。

 連盟は、1995年に富山県立近代美術館、北九州市立美術館、川崎市民ミュージアムで起こった美術館の活動を制限する動きを憂慮する声明文を公表すると同時に、富山県立近代美術館問題について美術館の適切な対応を求める67名の会員有志による要望書を美術館に送付している。この経緯については、富山県立近代美術館で「’86富山の美術」の副担当の学芸員だった島敦彦会員が論じている。同問題については、1988年頃に針生一郎会員が常任委員会で抗議声明を出すように提案したが却下されたとされる(*1)。1993年に三頭谷鷹史会員の問題提起を受けて再度常任委員会で検討することになったものの、問題提起を検討しないまま、翌年の総会を迎え、再度三頭谷会員から再検討の要望が出されて、常任委員会でようやく検討して、声明文を公表して要望書を送付することになった。島会員が述べるように、富山県立近代美術館問題への連盟の対応は遅きに失した感がある。

 また、同じく1998年に起こった山種美術館の移転・縮小および学芸員解雇問題についても連盟は声明を発表している。同館学芸員としてまさに当事者だった草薙奈津子会員が経緯を詳しく論じている。2004年には、芦屋市立美術博物館の存続問題についても声明を発表し、針生一郎会長と中村敬治事務次長が芦屋市役所で小治英男芦屋市立美術館館長に声明書を手渡している。

 3点目として、表現の自由に関係する活動を挙げることができる。1964年の東京都美術館の陳列作品規格基準要綱に関する要請状に始まり、1976年のパロディ裁判に関する最高裁への声明、1995年の富山県立近代美術館問題に関する声明文と要望書は、いずれも美術館の問題であると同時に、表現の自由に大きく関わる問題でもある。2015年以降の連盟の取組については、連盟内の表現の自由研究会の一員である林道郎会員が文章を寄せているとおりで、近年の連盟の重要な取組のひとつとなっている。

 最後に、連盟は国内の評論活動の活性化にも取り組んできた。個別の評論活動は会員がそれぞれ行っており、これまで述べてきた取組も広義の評論活動と言えるが、それらに加えて、とりわけ21世紀になってから、団体として美術評論を活発にしようと努めてきた。2001年の『美術評論家連盟会報』の創刊はその代表例で、背景には議論や相互批評が活発とは言えない近年の状況に対する危機意識があったという(*2)。当初は日英のバイリンガルで年に2回、冊子体で発行したが、現在では年に1回、オンラインでの刊行となっている。連盟結成50周年にあたる2004年には、「日本の美術批評のあり方」と題するシンポジウムを開催し、その記録を含めた冊子を刊行している(*3)。シンポジウムとその後については、50周年記念事業委員会の委員を務めた水沢勉会員が寄稿している。このシンポジウムの後、連盟はほぼ毎年シンポジウムを開催して、美術に関する議論を活発にしようと努力している。

 今回の特集では、こうした連盟の活動を直接論じる文章以外に、連盟に長く在籍する会員に連盟についての思いや考えをご寄稿いただいた。1974年に入会して長年ご活躍され、2012年から2017年まで会長をお務めいただいた峯村敏明会員、同じく1974年に入会し、事務次長や常任委員を歴任された木島俊介会員にご執筆いただいた。また、連盟の資料を調査・整理した鏑木あづさ氏にも、資料の概要と整理の作業についてご寄稿いただいた。

 今回の調査で、連盟が発表した以下の声明や要望が見つかった(声明の名称及び発表日にある[ ]は編集委員会による補足である)。このうち、1969年2月28日付の声明は東京都美術館所蔵であるが、それ以外は全て連盟が保管している文書である。

    「[東京都美術館の改築に関する]声明」(1969年2月28日)(東京都美術館所蔵)
 「[芸術文化に関する要望書]」(1974年4月30日)
 「[東京都美術館の機能に関する]要望書」([1975年4月25日])
 「[パロディ裁判に関する]声明」(1976年12月6日付)
 「ヴェネチア日本館改築についての要望書」(1981年8月31日)
 「[美術館の自立に関する]声明文」(1995年8月[16日])
 「[富山県立近代美術館問題に関する]要望書」(1995年9月[27日])
 「『山種美術館の移転・縮小および学芸職員の解雇問題』に関する声明書」(参考)(1998年9月22日)
 「芦屋市立美術博物館の存続問題に関する美術評論家連盟の声明書」(2004年2月27日)

 なお、これ以外に、1964年に陳列作品規格基準要綱に関する要請状を東京都美術館に送付したが、今回の調査では見つからなかった。また、連盟は1967年3月6日付で日本美術家連盟と連名で外務大臣と文部大臣宛の陳情書「国際美術問題処理機関の確立について」を発表したが、これは共同文書であり、全文が『日本美術家連盟ニュース』67号(1957年3月)に掲載されているので割愛した。

 今回取り上げることができなかった活動も少なくない。連盟は長年、文化庁の芸術家在外研修員制度の推薦を行っていた。残された記録によると、1971年以降、推薦制度が廃止される2013年まで推薦団体として美術家の推薦を行ってきた(2014年も書類の提出先団体であった)。また、連盟には、上述したように、1965年の国際美術評論家連盟の国際大会の東京誘致の計画があり、他にも、1977年に国際的な会議の開催、関連展覧会の開催、戦後日本美術のドキュメントの出版という3つの計画があり、このうち戦後日本美術のドキュメントの出版は、英文の戦後日本美術評論アンソロジーの出版へと変更されて1985年まで検討が続いたが、これらについても触れることができなかった。

 今回の特集を機に、連盟がこれまで行ってきた活動に再び光が当たり、その検証がさらに進むことを期待している。「美術評論家連盟は何をしてきたのか」とは修辞疑問でもある。過去の活動への問いは、現在の活動への戒めであり、未来の活動を作り出すための手がかりである。これまで行ってきた活動を参考にしながら、今後の活動をさらに展開できればと思う。また、連盟が保管する資料についても、今後の活用方法について考えていきたい。

 最後に、本特集に際してお世話になった方に御礼を申し上げたい。執筆者の皆様には、通常の会報よりも長い分量の原稿をお書きいただいた。片岡真実会員、草薙奈津子会員、倉林靖会員、光田由里会員には特集の企画でご協力いただいた。会員以外では、国際交流基金の伊東正伸氏には国際美術協議会についてご教示いただき、鏑木あづさ氏には連盟の資料を調査・整理していただいた。東京都美術館の資料調査については、東京都現代美術館の水田有子氏、東京都美術館の小林明子氏にご協力いただいた。そして、最後に、会報副編集委員長の中村史子会員、編集委員の太田泰人会員、成相肇会員、林道郎会員、そして、事務局の山内舞子氏に多大なる尽力を賜った。皆様への感謝の気持ちをここに記す。

 

  1. 三頭谷鷹史「終身刑!?となった芸術作品」『裸眼』7号(1988年12月)、16頁。
  2. 「美術評論家連盟が会報」『朝日新聞』(2001年5月12日夕刊)、11面。なお、機関誌の発行は、1972年9月の常任委員会での提案により、美術館に関する専門委員会、国際交流に関する専門委員会、美術情報センターに関する専門委員会とともに発足した機関誌に関する専門委員会で検討されることになり、『美術評論』(仮称)として年2回の日英のバイリンガルでの発行という案まで挙がったが、その後作業が進まないまま、1975年6月の総会で全ての専門委員会の解散が承認された。
  3. 美術評論家連盟編『美術批評と戦後美術』(ブリュッケ、2007年)。

 

『美術評論家連盟会報』20号