ヴェネチア・ビエンナーレ日本館の改修について 五十嵐太郎

2019年11月23日 公開

日本館の建築的な特徴

 ヴェネチアの公園ジャルディーニに並ぶ各国のパヴィリオンのなかで、1956年に完成した日本館はユニークな場所にたつ。ここは敷地が平らではなく、建築が高低差のある地形と絡みあう。設計者の吉阪隆正は、モダニズムの巨匠ル・コルビュジエの弟子であり、建物を持ち上げたピロティの形式は師匠譲りのようだが、モダニズムのピロティが大地と切り離すのに対し、日本館のそれはランドスケープと複雑な関係性をもつ。ジャルディーニにおいて、このように地形をいかしたパヴィリオンはほかにない。

 実際、当時の図面では、建築だけではなく、外構における石の細かい配置や敷石の割付、植栽や池が克明に描かれていた。既存の樹木を切り倒さないよう配慮しつつ、屈曲したアプローチや建物の配置を決めていることがわかる。またピロティのレベルでは、壁柱しか表現されないから、建築の存在感は薄く、まるで庭の図面のようだ。建築が「図」となり、外構が「地」となるのではなく、両者が一体として構想されている。

 吉坂は山登りが好きで、自然を愛した建築家だった。ゆえに、自然と対決するモダニズムではなく、まわりの庭も繊細なデザインを行う。当初、天井はガラスブロックを通じて自然光が入り、とくにその中央は開口部、床の中央にも開口部をもち、外部から光や風が入る空間だった。内部と外部を遮断せず、一体化させる大胆なデザインだが、後に改築されている。ただし、アート作品の展示しやすさという点では、良好ではないという批判も多く、当初からデザインを評価しながら、使い勝手を疑問視する声があった。

 

美術評論家連盟からの要望

 美術評論家連盟は、6月20日に開催された1981年度の総会報告において、井関正昭から「日本館が老朽化し、現代美術の展示場としての機能を十分はたすことができなくなっているから、所有者の外務省に連盟から改築を要請してはどうかという提案」があり、採択されている。これを受けて、1981年8月31日付で美術評論家連盟の会長、岡本謙次郎から外務大臣の園田直宛宛に「ヴェネチア日本館改築についての要望書」が提出された。問題点としては、屋根の雨漏り、ピロティが暗く、湿気が多いために使えないことなどを挙げ、メインの展示空間も「その後大きく変化している現代美術と適合しないため、作品の展観をきわめて困難なものにしています」と記されている。そこで本来は建て替えが望ましいが、それが難しい場合でも「大幅な改築」が必要だと述べている。

 ほかにも日本美術家連盟理事長の寺田竹雄から、外務大臣宛に「ベニス日本館の至急改修とそのための予算措置につきご依頼」(1981年8月12日)や日本建築家協会会長の芦原義信宛に「ヴェネチア日本館への陳情書について」(1981年8月14日)が提出されている。特に前者では、日本館がすでに建設から25年を経過し、展示室について具体的に以下のような問題を指摘している。すなわち、「会場の真中に設置されている四角な空気孔が、会場全体の有効な使用を妨げていますので、これを改める必要があること」。「彫刻作品等の野外展示のために、ピロティ式展示場がありますが、実際には暗くて使用に適せず、なんらかの改善を必要としていること」。そして「作品鑑賞の支障になるような点を改めるため、内部の必要な階層を行うこと」。

 

日本館はどのように改造されたか

 もっとも、こうした依頼を受けて、外務省がすぐに改修した形跡はない。そもそも日本館はどのような経緯で誕生したのか。現在の日本館がつくられる以前、1932年に日本はパヴィリオンの図面をビエンナーレ当局に送っている。ただし、これは帝冠様式と呼ばれるデザインであり、結局、場所の問題や戦争の拡大により実現していない。戦後に本格的に日本館が検討され、土地を提供されたものの、日本側に資金がなく、実現が危ぶまれていたが、外務省が支出する300万円とブリヂストンタイヤの社長、石橋正二郎による2000万円の寄付によって建設された。設計者は建築界の推薦によって、幼少のときから海外経験が豊富で、フランスから帰国したばかりの吉阪に決まった。

 あるとき美術側のコミッショナーが吉阪に改修の了解をもらおうと交渉したが、「建築に敗れない作品を出せばいいのではないか」と一蹴されたという。また彼は1980年に亡くなるが、その後も、建畠晢の証言によれば、遠藤利克の展示で、内部の手摺をとろうとしたら、吉阪の弟子による設計事務所、U研究室が激しく反発したり、早稲田大学出身の建築家に雨漏りについて相談したら、壊せないから、「ガラス屋根の強大な建物を作って、全体をその中に埋めろ」と言われたという(*1)。吉阪がカリスマゆえに、手を出しづらい状況だった。

 過去の展示記録を見ると、確かに苦労した形跡がうかがえる。1976年の篠山紀信の写真展示では、磯崎新が大理石の床に灰色のじゅうたんを敷き、天井と壁を白い布で覆い、均質な空間を用意した。細かい改造はなされている。天井の開口部に蓋状の覆いを設けたり、1986年にはグレーのカーペットを敷き、1988年には床の中央をベンチに改造して塞ぎ、ガラスブロックの屋根もアスファルト防水で覆い、池を埋めることになった。実際、展示室は絵画、ピロティは彫刻の展示に使うことを想定した1950年代のプログラムは、進化する現代美術や大型のインスタレーションにそぐわない。

 2002年、ピロティに倉庫とトイレを増築、階段脇にスロープを付加し、さらに下方がふさがれた。ただ、空間の特性を生かした展示も登場している。例えば、2009年のやなぎみわは巨大な写真を壁柱に斜めに立てかけ、2011年の束芋は床の中央を井戸に見立てた。2010年の建築展のアトリエ・ワンは、床の中央を貫通するかのように、巨大な模型を設置し、ピロティの天井からその下半分がぶら下がっていた。また1982年の川俣正は、木材を建設現場のように組み立て、日本館の内外に介入する大胆な建築的なインスタレーションを試みた。そして筆者が2008年にコミッショナーとして関わった石上純也の展示では、どのように立体物を配置しても、室内できまった感じにならないことから、結局、何も置かないことが、もっとも空間の美しさを引き出せると判断し、至近距離でないと見えない、細密画を壁に描くことにとどめた。

 

2014年のリニュアルについて

 結局、本格的な改修は石橋財団が日本館を改修する寄付を提案し、財団の委託を受けた伊東豊雄が手がけることになった。したがって、残念ながら、美術評論家連盟の要望に対し、外務省が予算措置をとることなく、再び寄付が行われるまで、だましだまし使い続けたわけである。伊東は、世界的に有名な建築家であり、2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の日本館の展示によって金獅子賞を獲得したが、彼の我を押しだすのではなく、むしろ抑制されたデザインによって吉阪建築の良さを引きだした。改修のポイントは、自然に開かれた日本建築の特性ともつながるオリジナルの良さを尊重しつつ、使いにくい部分を改善することだった。

 外観は、まわりの庭園やオリジナルの手摺を復元する一方、後から正面に付加された無骨なスロープを撤去する(ただし、目立たない側面に別のスロープを設置)。機能面では、キッチン、トイレ、倉庫を修繕し、控え室を新設する。そして室内については、屋上シート防水の代わりに、ポリカーボネートの折板屋根にすることで、かつての天井からの採光を復旧させながら、光天井幕や遮光幕なども付加させることで、展示によって光の環境をコントロールしやすくしている。黒白のコンストラクトが強い床大理石はコンクリートの床に変更し、現代美術に対応しやすいものとする。ほかに内部の吹抜けまわりに透明なアクリルの手摺をつけたり、エントランスの庇の隙間にポリカーボネートの折板を入れるのも、オリジナルを損ねず、機能性や安全性を維持する手法だ。

 かつて美術評論家連盟が希望した機能面では、だいぶ改善されたと言えるが、ドイツ館やフランス館に比べると、巨大化する現代美術を展開するための規模が足りない現状は変わらない。一方で、ジャルディーニの各パヴィリオンは、それぞれに建設された年代のデザイン・スタイルを蓄積し、それ自体が文化財となり、建築博物館の様相も呈している。リニュアルしたばかりなので、建て替えの議論が起きるとしても、しばらく先だろうが、世界の中で日本の現代美術をどう発信していくかに大きく関わることなので、美術評論家連盟による日本館への提言は今後も必要であると思われる。


http://www.oralarthistory.org/archives/tatehata_akira/interview_02.php (2019年10月22日閲覧)

資料
「ヴェネチア日本館改築についての要望書」(1981年8月31日)

 

 

『美術評論家連盟会報』20号