(焼かれた)作り手の手に手向けて  gnck

2019年11月23日 公開

 7月18日、京都アニメーション(京都市伏見区)で男がガソリンを撒いて着火し、爆発と火災によって36名が死亡、33名が負傷した。京都アニメーション第一スタジオは作画のための様々な道具や原画を含め全焼。サーバからは、かろうじて無事にデータが回収された。被害者弁護士からは、遺族の意向として実名の公表をしないように訴えがあったが、警察発表では死亡した被害者全員の名が公表された。犯人も火傷を負っており回復傾向だが、10月現在取り調べは未だ開始されていない。事件直後から社会に与えた衝撃は大きく、多くの人から寄付金が集まっている。

 アニメーションは集団制作や商業ベース、物語芸術である点で、美術評論の対象としては取り上げられづらい(近年の、美術館による紹介も、「取り上げ方」についての継続的な議論が勿論望まれる)が、人間の手で画面の一瞬一瞬を作り上げ、そこに生あるかのごとき動き(アニメート)を生み出すことの芸術性を、疑うべくもないだろう。その芸術を作り上げる一つ一つの手が、あまりにも突然に、焼かれた。犯行の動機などの詳しい状況はわかっていないが、犯人は「パクりやがって」との言葉を発していたらしい。同社が開催する小説の賞への応募歴も分かっているようだ。しかしこの事件を「批評する」とか、「批評的に乗り越える」とかいった言葉は、あまりに虚しく響く。この出来事は、「起こるべくして起こった」ことなどではなく、事件の偶有性――もしかしたら、全く起こらなかった世界が十分にあり得るのではないのか――に、私は慟哭するほどの恐ろしさを感じる。この傷はおそらく、「物語」によってしか、すなわちアニメーションによってなら、希望を語りうるかもしれない、という予感はしている。

 だが、これはたとえば、評論家が連盟として声明を出すような事柄なのかも私にはわからないのだ。私はただ、全ての芸術への暴力への、怒りを表明することしかできない。

 

『美術評論家連盟会報』20号