誰でも絵は描ける、誰でも絵は論じられる  藤田一人

2019年11月23日 公開

 今年、私が事務局を務めているグループ展・第8回「座の会」展(2019年7月13日〜24日、O美術館)で、絵を描いて展示した。切っ掛けは、昨年のグループ展初日の二次会で、メンバーの一人から「ギャラリー・トークだけではなく、会費の払っているんだから、作品を展示してみたら?」と提案(いや、嫌味だったか?)されたから。その時、普通は「いや、いや」と断るものだろうし、相手もそのつもりだったのかもしれないが、少々へそ曲がりな私は、「そう言われるのなら、次回は絵を描いて出品します。誰にでも、絵は描けるから」と作品出品を宣言。こうして今回、約5メートルの画仙紙に、一本の線を繋げていって様々な形を展開していく、画巻状の作品を展示した。そして、白紙の巻紙も用意して、会場に来た方々にも、「自由にご一筆を!」と私の後に描くことを促した。
 会場に来た友人、知人からは、「プロの画家達の中に入って、“誰でも絵は描ける”と言って、素人が作品を展示するというのは、度胸だねぇ」と言われたが、私が言う「絵は誰でも描ける」というのは、決して画家を甘く見ているのではない。むしろ、もっと素直に、等身大に、世の画家、美術家たちの仕事を観て、考えたいという思いからだ。
 話をしたり、文章を書いたり、唄を歌ったり…。私たちは日常生活で当たり前のように表現行為をしている。絵を描くというものその一つに他ならない。そんな日常茶飯事な行為の延長線上に“芸術”と評されるものもある。絵を描くことは決して特別なことではない。美術の専門教育を受けた者の、また、芸術的才能がある者の特権ではない。当たり前のことだが、私たちすべてが絵を描くことが出来、鑑賞することも、論評することも出来るのだ。そうした一種のアマチュアイズムの膨らみこそが、芸術なるものが豊かに社会に息づく、大いなる希望であったのではないか。
 しかし、昨今の美術状況を鑑みると、絵を描くことにも、また、それを批評することにも、ある見識や立場が、自由を奪っているように感じる。ならば、誰もが勝手気儘に下手な絵を描こう!的外れでも素直な論評をしよう!その延長線上にしか、創作も批評もない。

 

『美術評論家連盟会報』20号