徴税制と奴隷制の違いはなにか?  大坂紘一郎

2018年11月09日 公開

 なぜキュレーターになろうと思ったのかと、最近になって聞かれることがある。小説家になろうとして早稲田大学を中退し、バンコクでウォシュレットを売って20代の前半を過ごし、何も上手く行かずに汲々としていた当時の私にとって、「アート」は気楽な嗜好品としか感じられなかった。脳みそが溶けそうな天候と感情の濁流にのまれる毎日に区切りをつけて、公共経済学を学ぶことを思い立ち、24歳の頃イギリスに移った。留学生との教養ある暮らしは刺激に欠けていたが、その分勉強には集中できたのかもしれない。現地の高校生と一緒に、オックスフォード大学(PPE)を受験した時、教授陣を前に聞かれた質問はひとつ、「徴税制と奴隷制の違いはなにか?」ということだった。
 私はこの受験の失敗に感謝している。数千年の政治経済史を凝縮したようなこの質問によって、教授陣に求められていたのは答えではなく、答えに向かうための実践的なアプローチであることを理解することができた。自ら問いを立て、あらゆるリソース、技法、メディアを駆使してその問いの開拓者となること————私はそういう姿を、やがて現代アーティストに投影するようになった。そこには文学も、経済学も、生物学も、工学も、あらゆる領域間の疎通が可能に思えた。細分化した体系のうちに膠着したさまざまな情報を抜き出し、個人の独断によって再編し、作品とよばれる結合のなかに投下するこの壮大な個人プロジェクトに、強い関心を持つようになった。
 ところで私は、キュレーターではない。批評家でもない。アーティストに声を掛けて、家賃6万5千円の借家に招き、限られた資金でできることをするだけだ。主宰するプロジェクトに対して、一種の自戒としてキュレーションという言葉を使ってみるのだが、本当は自分にはイベントオーガナイザーという肩書きが相応しいと思っている。その意味で、美術評論家連盟という場所は、私には場違いなのかもしれない。けれども、誤解を恐れずに言えば、この自分自身の状況に対する設問と実践のために、私にもそこに籍を置く資格がいくらかはあるように思う。批評はある対象(そこに実体があろうがなかろうが)を指し示す道筋のようなものであり、それはまさに態度の表明であり、文章に表そうと行動に表そうと、目的に相応しい方法が取られている限り、その違いは大した問題ではないのだから。