特集趣旨

2018年11月09日 公開

 とりあえず眼前に用意された境目がふたつ。改元と、オリンピック。いずれも勝手に上から与えられた境目に過ぎないのだが、このようなことさらの転換点の強調はいかにも、ごくオーソドクスな支配者の欲望に直結している。空間は権力や経済力ないし武力で我が物にされ、時間は名付けられることによって専有されるのである。オリンピックに乗じていっときはサマータイム制の導入さえ検討されていたが、いよいよ私たちは露骨な時間支配欲に取り込まれつつある。平成の元号はもはや新聞と役所の書類と硬貨でくらいしか目にしないものと思っていたら、この期に及んでにわかに「平成最後の」の形容が乱発され始めたのを見るに、我々の時間は未だ自分のものでなくキミが代の中にあるらしい。
 それにしても何という世知辛さだろう。ありとあらゆる物事が総動員され、自分(たち)と異なる者を締め出すことが安寧秩序の道とでもいうかのように、誰もが憤慨し、怯え、憎しみを育てている。これもやはり上から降ってきた欲望の拡散の結果に他ならないように思えるが(あるいは逆であろうか)、そうしていたるところに現出し噴出している目の荒い境界や切断面に対して、むしろ微細にひび割れを可視化する意志を託し、本号の特集を「くらい[krei-]ものごと 分け/隔て」と題した。危機(crisis)と同じく語源にkrei-[ふるいにかける、分断する]の意を刻み込んだ批評(criticism)は、重大な変化を率先して見出し、判断し、画定し、ゲリラ的にあらゆる場所に境界を、裂け目を、発生させる。批評は排除と同化の双方に抵抗する。
 第一部「平成が終わる前に」は、椹木野衣会員の提案を元にしている。常任委員会において当の提案がなされた際には、上述の通り美術に結びつけるどころか生活の上でほとんど意識することがなかった元号の名が出たことに、私を含めて多くの委員が意表を突かれた。椹木会員には、「平成最後の」会報に力を尽くした長文を寄せていただいた。振り返るには近すぎる期間でもあるが、この30年の美術館やメディア環境の変化、そして天皇を主題に扱う作品についての考察もご寄稿いただいた。第二部「クリティシズムとクライシス」では、直近に起こった事案を含めて現況を取り巻く諸問題に触れる。なお元会員の藤枝晃雄氏の追悼文については、今日の批評言説を考えるうえでも回顧されるにふさわしい氏の功績を鑑みて、追悼欄でなく特集欄内に収めることとした。

 

美術評論家連盟
2018年度会報編集委員長
成相肇