珍説と珍事  名古屋 覚

2018年11月09日 公開

 今年の大阪の地震、西日本の豪雨、全国の猛暑、北海道の地震などで多くの犠牲が出たのは、国がオウムの13人を殺害したことへの報いなんだよ、と妻に説いたら、頼むからそういうバカなことを言うのはやめて、と叱られた。いや、全てをお見通しの神は、人間の罪に対して、時には前もって罰をお与えになる。1995年、オウムの地下鉄サリン事件の2カ月前に阪神・淡路大震災が起こったのがそれだ——という説も披露したが、もう聞いてもらえなかった。
 確かに、科学的には全く根拠がない。不謹慎だとの非難も免れまい。が、空想的には、これほど均整の取れた仮説があろうか。
 神でない人間は、他人の生死を完全に支配することを許されない。法に基づいた死刑であろうと、無法な殺人であろうと、無抵抗の人間を、本人の意思に反して、意図的に、失敗なく殺害することは、全て同じ罪である。この原理を悟った、本当の先進国の指導者たちが、暗愚な国民感情を無視してまでも、死刑を廃止したのだろう。犯罪現場で警官らが遠慮なく発砲するのは、容疑者側にも投降という選択肢はあるし、被弾しても命は取り留めるかもしれないから、上記の原理に抵触しない。
 神でない人間は、他人による評論の当否について断定することを許されない。絶賛であろうと酷評であろうと、どれも主観的であり無根拠である点で、全ての評論は同じである。
 ある時、都内で開かれた展覧会を、外国の雑誌で私が酷評したら、展覧会を企画した人から事務所に呼び出され、電車がなくなる時間まで苦情を言われた。こんなことを書かれたら作家は自殺するかもしれない、とか。自殺でない選択肢もあるし、展評なんか気に留めないかもしれない。評論家ではなく、展覧会の興行主か、画商の態度である。
 それは1997年5月14日の夜。その人は南條史生氏である。そういう人が、美術評論家連盟の会長になったのだから、冒頭の私の説だって、そんなに非常識とはいえないだろう。