小泉明郎 「空気」から《夢の儀礼(帝国は今日も歌う)》へ  飯田志保子

2018年11月09日 公開

 本論では現代美術家の小泉明郎が天皇の肖像をモチーフとした一連のシリーズの体系化を通して、平成が終わろうとするこの時代の空気と、小泉の作品が持つ意義について論じたい。本論の文脈における空気とは、直截的に言えば、芸術表現における(自主)規制や(自己)検閲を醸成する社会的圧力のことである。小泉自身も東京都現代美術館の「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展から「自己検閲という形で作品を取り下げ」る決断をし、展示予定だった《空気》は同展会期中に美術館にほど近いギャラリーの無人島プロダクションで開催された「小泉明郎 空気」展にて日の目を見ることとなった(*1)。《空気》と題された作品は当時、同展のために計2点制作された。上記の経緯によって展示を取り下げて以降追加制作され、2016年に無人島プロダクションで計7点発表されたが、小泉が天皇の肖像をモチーフとした作品を制作し始めたのは2010年に遡る。
 小泉は、紙にチャコールで描かれた肖像のとりわけ顔の部分を消しゴムで擦って歪ませたり、顔にスクラッチを入れるような動作で介入したりすることで、肖像に描かれた人物の内面や精神性を描き出す作品を2010年から断続的に制作している。モチーフに共通するのは、人間性を剥奪され、形式化された存在であること。肖像という形式の内に封印された自己存在を訴える心理的/精神的な叫びが、消しゴムのストロークによって生じた傷や歪みの隙間から漏れ出してくるような、どちらかといえば悪夢的なイメージの作品群である。この一連の作品の始まりが、昭和天皇の日本国憲法調印(1947年)の写真を基にした《Hirohito Signing》(2010)である。同じ技法は原節子をモチーフにした「Study of Spiritualization」(2012)や「笑う女性(Smiling Woman)」(2014)シリーズでも用いられ、小津安二郎によって自己の内面の表現を封じ込められ、極めてフォーマリスティックな演技を強いられた役者の精神性を表象する試みが為された。これらの作品は、肖像に歪みや傷を付けるイコノクラスム的な手法で行われている点において、フランシス・ベーコンの代表作《インノケンティウス10世の肖像画後の習作》(1953)を含む叫びを描いた作品との関連性が看取され、小泉自身もその影響を語っている(*2)。同じく原節子をモチーフとした「祭壇画(Altarpiece)」(2014)シリーズでは十字架を想起させる線が登場し、破壊的な介入から記号的なイメージの挿入へと変化の兆しを見せる。そして再び天皇の肖像をモチーフにした「象徴(The Symbol)」(2018)シリーズでも記号的な線によって、御名御璽による決裁や記者会見といった天皇を天皇たらしめる形式的かつ象徴的な国事行為を執り行う歴代天皇の肖像に介入している。また「Sunday at Hirohito’s」(2012)シリーズでは、アメリカの『LIFE』誌(*3)に掲載された日常を過ごす天皇の写真の上にアクリル絵具で皮膚の下の解剖図を加筆することによって、天皇を人間以上の「怪人的/モンスター的な存在」(*4)に変容させた。
 上記の各シリーズは肖像に破壊の痕跡を付加することで、人格を持たない象徴的存在の奥深くに抑圧された感情や精神、人間性を引きずり出す試みである。小泉が破壊を欲望したのは、聖なる者として祭り上げられ、感情表現も許されず、象徴としての振る舞いを強いられてきた存在の能面的な「顔」であった。「決まっている表情を動かしたい」と小泉は言う。(*5)人権を持たない天皇という存在は、人間であると同時にこの国の制度でもある。その両義性ゆえ、天皇は小泉の目に、日本の政治/社会構造が国家を束ねるために生み出した、莫大な力を封印された生贄として映っている。
 「天皇が制度である以上、撮影対象(となる人物)はいないのではないか」(*6)という発想の下、「空気」では肖像が気配にまで圧縮されている。新年の一般参賀や巡幸などメディアで広く流布された典型的な写真をプリントしたキャンバスの上に、本来天皇や皇族が写っているはずの位置にそのシルエットが油絵具かアクリル絵具で極めて薄く描かれる。影というよりむしろ気配として描かれるという方が正確だろう。実際、昭和天皇巡幸の写真を基にした《空気 #6》《空気 #7》の素材表記は「プリントしたキャンバスにアクリル絵具、空気」(*7)。つまり「空気」は天皇を人間としてではなく、「制度」として描いた作品群である。
 天皇を表象すること自体がタブー視され、検閲と自主規制を招いてきた歴史はこれまでにも論じられてきた(*8)。展覧会の企画制作に携わる少なくない数の美術専門家が、天皇制に限らず様々な理由で検閲や自主規制の当事者として葛藤を抱えてきたことだろう。小泉もまた、「倫理観」という社会の同調圧力に圧され、美術館における作品展示を自主規制した当事者のひとりである。その小泉が述べた次の言葉からは、作品を通して天皇制の背後にあるメタレヴェルの危機に警鐘を鳴らそうとする意識が窺える。「国家という大きな共同体を束ねるには強い求心力が必要。そのための超越的な存在として神や天皇が創り出されたが、求心性は排除を生む。その表裏一体の関係が見えないと危険。気付かせなければ」(*9)。この危機は、異なる価値観や異質な存在を受け入れようとしない社会の不寛容さとして、変化を恐れる人々の弱さとして、そして国家の成立と維持のために象徴という(自己)犠牲と儀式を求める人々の欲望として、現代社会に偏在している。映像インスタレーション《夢の儀礼(帝国は今日も歌う)》(2017)は、左右の政治的イデオロギーが互いに周回し逆転したような反天皇制のデモを舞台に、聖者かつ生贄を思わせる人物の行進が重ね合わせられ、クライマックスに向かって音楽と演技が盛り上がるにつれ鑑賞者に圧倒的な演劇的カタルシスをもたらす。本論で概観したシリーズは、映像作家としての小泉の真骨頂が発揮されたこの作品のバックボーンである。同時に、社会的圧力としての空気が姿形を変えながら継承されていく様相を今後も看視し、天皇の肖像に仮託して批評的に視覚化する意義を持つ。

註:
1.無人島プロダクションウェブサイト参照。2018年9月3日閲覧。
http://www.mujin-to.com/press/koizumi_2016_air.htm
2.筆者による小泉へのインタヴュー。2018年8月24日。
3.1946年1月に昭和天皇が発表した詔書、通称「人間宣言」を後押しし、天皇がもはや神格化された存在ではなく「普通の人」であるイメージを人々に普及するアメリカの意図で「Sunday at Hirohito's- Emperor poses for first informal pictures」と題された天皇の日常風景写真が掲載された。1946年2月発行。
4-6. 筆者による小泉へのインタヴュー。2018年8月24日。
7. 無人島プロダクションに確認した表記に基づく。
https://www.annetgelink.com/artists/22-meiro-koizumi/works/other-works/17669/#cycle
8. 2016年度美術評論家連盟主催シンポジウム「美術と表現の自由」(2016年7月24日開催)においても、1986年に富山県立近代美術館で大浦信行作《遠近を抱えて》(1982-1985)が検閲された当時の経緯が光田由里氏による詳細な発表と共に再検証された。
9. 筆者による小泉へのインタヴュー。2018年8月24日。